第97章 恋人になったあと
午後。
万事修理店の扉が開いた。
「こんにちは」
以前、恋人のふりをしていた二人だった。
林夏は顔を上げる。
「いらっしゃい」
女が小さな箱を持っている。
「これ、また壊れました」
箱の中には、古い腕時計が入っていた。
林夏は取り出して確認する。
「前に持ってきたやつ?」
「はい」
男が隣から言った。
「今度は本当に壊しました」
林夏が二人を見る。
「本当に?」
「本当に」
女が笑った。
「この人、時間を見るたびに強く押すんです」
「だって止まってたから」
「強く押したら動くと思ったの?」
「……思った」
林夏は時計を机に置いた。
「たぶん直る」
「お願いします」
二人は椅子に座った。
以前とは少し違う。
距離が近い。
けれど、どこかぎこちない。
月白がそれに気づいた。
「付き合ってるんですか?」
二人が同時に顔を上げる。
「はい」
「そうです」
また同時だった。
林夏が笑う。
「息ぴったりじゃん」
「そうでもないです」
女が言った。
「最近、よく喧嘩します」
男も頷く。
「します」
「どうして?」
月白が聞いた。
女は少し考えた。
「付き合う前は、相手の嫌なところが見えてなかったんです」
男が苦笑する。
「付き合ったら、全部見えるようになりました」
「それは大変だ」
林夏が言った。
「林夏は他人事みたいに言わないで」
月白が横から言う。
「なんで僕?」
「分からない」
二人は顔を見合わせた。
*
時計を分解する。
中の歯車が一つ、少し曲がっていた。
林夏は工具を選ぶ。
「これなら直せる」
「よかった」
女が安心したように言った。
その隣で男が小さく息を吐く。
女が気づく。
「何?」
「いや」
「何かあるでしょ」
「ないよ」
「ある顔してる」
「……別に」
「そういうところ」
女の声が少し強くなった。
店の中が静かになる。
男も黙った。
月白が二人を見る。
林夏は時計を直し続ける。
しばらくして。
男が言った。
「僕は、君に嫌われたくないんだ」
女が黙る。
「だから、何でも合わせようとしてしまう」
「それで?」
「疲れた」
女は少し俯いた。
「私も」
「え?」
「私も、嫌われたくないから我慢してた」
二人とも黙る。
「……じゃあ」
男が言った。
「最初から、言えばよかったんだ」
「うん」
「嫌なものは嫌って」
「うん」
「一人になりたいときは、一人になりたいって」
「うん」
女が顔を上げる。
「それでも一緒にいたいなら?」
男は少し笑った。
「そのときは、また一緒にいればいい」
*
林夏は時計の裏蓋を閉じた。
「直った」
秒針が動き始める。
二人は時計を見る。
「よかった」
女が笑う。
男も笑った。
けれど。
林夏は時計を渡しながら言った。
「でも」
「はい?」
「これ、僕が直したから動いてるだけだからね」
「?」
「二人のことは自分たちで直して」
女が吹き出した。
男も笑う。
月白は小さく笑った。
「林夏らしい」
「何が?」
「何でも修理できると思われたくないところ」
「だって無理だよ」
林夏は肩をすくめる。
「人の人生まで修理屋の仕事にしたら大変だし」
二人は代金を払い、店を出ていった。
扉が閉まる。
月白が言った。
「うまくいくかな」
「分からない」
「心配じゃない?」
「本人たちが決めることだから」
月白は頷いた。
「そうだね」
*
店の外。
二人は並んで歩いていた。
女が言う。
「さっきのこと」
「うん」
「私、少し言い過ぎた」
「僕も」
「じゃあ、お互い様?」
「そうしよう」
少し歩く。
「でも」
女が言った。
「これからは、嫌なことはちゃんと言う」
男も頷いた。
「僕も」
「それで喧嘩が増えたら?」
「そのときは、また話す」
「面倒だね」
「恋人って、たぶんそういうものじゃない?」
女は笑った。
「そうかも」
二人は手をつないだ。
今度は。
誰かに見せるためではなかった。
*
夕方。
万事修理店。
月白は本を読んでいる。
林夏は棚を整理している。
「月白」
「うん?」
「今日の晩ご飯」
「何?」
「昨日の残り」
「それでいい」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、そうしよう」
月白は本を閉じた。
「林夏」
「ん?」
「私たちも、嫌なことがあったら言ったほうがいいのかな」
林夏は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「言わないと分からないこともあるから」
月白は頷く。
「じゃあ」
少しだけ間を置いて。
「今日は、もう少しここにいたい」
林夏が笑った。
「それは簡単」
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、もう少しいる」
二人の間に、静かな時間が流れる。
恋人という名前は。
まだついていない。
けれど。
一緒にいることを選ぶ日は、少しずつ増えていた。
【関係:継続】
【相互理解:未完成】
【離脱:未設定】
【次回選択:本人による】
林夏は端末を見ずに、窓の外を見た。
「明日、何食べようかな」
月白が笑った。
「また食べること?」
「大事だから」
「そうだね」
二人は笑った。
そして。
夜が来た。




