第94章 いない時間
朝。
万事修理店の扉を開けると、いつものように街の音が入ってきた。
林夏は店先を掃除する。
「今日は何しようかな」
昨日、月白と話していた。
今日は林夏が行き先を決める。
それだけの約束だった。
けれど。
午前十時になっても、月白は来なかった。
十一時になっても来ない。
林夏は時計を見る。
「……寝坊かな」
昼になった。
まだ来ない。
林夏はスマートフォンを手に取った。
メッセージを送る。
――今日、どうする?
しばらく待つ。
返事がない。
「まあ、そういう日もあるか」
林夏はスマートフォンを置いた。
*
午後。
一人の客が来た。
「すみません。これ、見てもらえますか?」
古いカメラだった。
林夏は受け取る。
「落としました?」
「はい」
「いつ?」
「昨日です」
林夏はカメラを開けた。
「直るかもしれません」
「お願いします」
客が帰ったあと。
林夏は作業を始めた。
いつもなら。
向かいに月白がいる。
本を読んでいる。
たまに顔を上げる。
「まだ?」
「もう少し」
「お腹空いた」
そんな会話をする。
けれど今日は。
店が妙に広かった。
林夏は自分でも少し驚いた。
「……静かだな」
一人なら、いつもこんなものだった。
以前は気にならなかった。
*
同じ頃。
月白は、古い建物の中にいた。
目の前には、かつて命運修正機構が使っていた記録端末がある。
「これを見てほしい」
白澤が言った。
月白は画面を見る。
「私の記録?」
「うん」
そこには、過去の命軌が表示されていた。
幼い頃。
最初の契約。
命軌固定。
そして。
林夏と出会った後。
大量の空白。
「どうして今?」
月白が聞く。
「今なら、君自身が見るかどうか決められると思ったから」
月白は少し黙った。
以前なら。
この画面を見ることが怖かった。
自分の未来が書かれている。
自分の死が記録されている。
自分が誰を愛し。
誰から離れ。
いつまで生きるのか。
そういうものが、すべて決められているように感じた。
けれど今は。
「見る」
月白は椅子に座った。
記録が開く。
そこには、昔の自分がいた。
白澤の隣にいる。
笑っている。
手を握っている。
その未来を、自分自身が選んだことになっている。
月白は画面を見つめた。
「……昔の私は」
「うん」
「幸せだったのかな」
白澤は答えなかった。
「分からない」
月白が言った。
「私も分からない」
そして画面を閉じた。
「でも」
白澤を見る。
「今の私は、ここにいたい」
白澤は頷いた。
「分かった」
「ありがとう」
それだけだった。
*
夕方。
月白が店に戻った。
林夏は作業台の前にいた。
「ただいま」
「おかえり」
林夏は顔を上げる。
「どこ行ってたの?」
「白澤と話してた」
「そっか」
林夏はそれ以上聞かなかった。
月白が少し驚く。
「聞かないの?」
「話したくなったら話して」
「……うん」
月白は椅子に座った。
店内を見回す。
いつもの場所。
いつもの匂い。
いつもの音。
「今日」
月白が言った。
「ここに帰ってきたとき、ちょっと安心した」
林夏は手を止めた。
「そう?」
「うん」
「何かあった?」
「昔の記録を見た」
「白澤と?」
「うん」
「怖かった?」
月白は少し考えた。
「前ほどじゃなかった」
林夏は頷いた。
「よかった」
それだけ。
月白は少し笑った。
「林夏」
「ん?」
「今日、私がいなかった時間」
「うん」
「寂しかった?」
林夏は少し考えた。
「……ちょっと」
月白が笑う。
「私も」
「え?」
「今日、ここに来られなかった時間」
月白は本を机の上に置いた。
「少し寂しかった」
二人はしばらく黙った。
林夏が笑う。
「じゃあ、同じだ」
「うん」
それ以上は言わなかった。
*
夜。
二人は店の前に椅子を出していた。
街灯が道路を照らしている。
月白が言った。
「ねえ」
「うん」
「私たちって」
少し迷う。
「何?」
林夏が聞く。
「……なんでもない」
「また?」
「うん」
林夏は笑った。
「じゃあ、いつか聞けばいいよ」
「いつか?」
「うん」
「いつ?」
「分からない」
月白は笑った。
「林夏らしい」
二人で空を見る。
星は少なかった。
それでも。
隣にいる人がいる。
それだけで、今日は十分だった。
*
同じ夜。
紅葉は七番から届いたメッセージを見ていた。
――明日、会える?
紅葉は少し考える。
――会える。
送信する。
七番から返事が来る。
――じゃあ、昼に。
紅葉はスマートフォンを置いた。
少しだけ笑った。
ユウもまた、学校で受け取った青い鳥のキーホルダーを机の上に置いている。
まだ、それが恋なのかは分からない。
けれど。
明日、彼女に会いたいと思った。
それだけは分かっていた。
そして。
白澤は一人で、古い記録を整理していた。
月白の過去を消すことも。
書き換えることも。
もうしない。
ただ、残された記録をそのまま残す。
過去は過去として。
現在は現在として。
未来は、まだ誰にも分からないまま。
【過去:保存】
【現在:進行中】
【未来:未設定】
その表示を閉じる。
誰かを好きになると。
相手の人生まで欲しくなることがある。
一緒にいたい。
笑っていてほしい。
自分を選んでほしい。
けれど。
その気持ちと、相手の選択は別のものだった。
だから。
好きなまま、待つこともできる。
好きなまま、隣にいることもできる。
好きなまま、離れることもできる。
そして。
好きなのかどうかさえ、まだ決めないこともできる。
夜は静かに過ぎていく。
明日になれば。
また誰かが誰かに会う。
そして、その続きを。
自分たちで決めていく。




