第93章 好きになったあと
午後。
万事修理店には、珍しく客がいなかった。
林夏は奥で工具を整理している。
月白は窓際の椅子に座って、本を読んでいた。
そこへ紅葉が入ってきた。
「暇そうね」
「今日は暇」
林夏が答える。
「珍しい」
「だから本でも読もうかなって」
「あなたが?」
「何その反応」
紅葉は笑った。
月白も本を閉じる。
「紅葉、今日は一人?」
「うん」
「七番は?」
「今日は別」
林夏は工具を戻しながら言った。
「じゃあ、三人で何か食べる?」
「なんでそうなるの」
「暇だから」
「……まあ、いいけど」
三人は近くの食堂へ向かった。
*
注文を終えると、林夏は水を飲んだ。
「そういえば」
紅葉が月白を見る。
「何?」
「最近、よく一緒にいるね」
月白は少し考えた。
「そうだね」
「楽しい?」
「うん」
即答だった。
紅葉は少し笑った。
「そう」
林夏は何も言わず、メニューを眺めている。
「林夏は?」
紅葉が聞く。
「何が?」
「月白と一緒にいるの」
「楽しいよ」
こちらも即答だった。
月白が少しだけ笑う。
紅葉は二人を見た。
「……なるほど」
「何?」
「別に」
料理が運ばれてくる。
三人は食べ始めた。
しばらくして、紅葉が突然言った。
「ねえ、月白」
「うん」
「好きな人ができると、自分って変わると思う?」
月白は箸を止めた。
「……どうだろう」
「私は変わった」
「紅葉が?」
「うん」
紅葉は少し考えながら話した。
「昔は、誰かに必要とされれば、それでいいと思ってた」
「命令されることも?」
「そう」
「どうして?」
「自分で決めなくて済むから」
月白は静かに聞いていた。
「でも今は?」
「今は、自分で決めたい」
紅葉は答えた。
「七番が好きかどうかも」
「うん」
「昔の私と同じ気持ちなのかも分からない」
「うん」
「だから、まだ決めてない」
月白は微笑んだ。
「それでいいと思う」
紅葉が少し驚く。
「あなたは?」
「私?」
「林夏のこと」
月白は黙った。
林夏は食事をしながら、何も言わなかった。
月白は少し考えた。
「私は……一緒にいると、明日のことを考えるようになった」
「明日?」
「うん」
「昔は?」
「昔は、明日が来るかどうかばかり考えてた」
紅葉は何も言わなかった。
月白は続ける。
「でも今は、明日何を食べようとか」
少し笑う。
「どこへ行こうとか」
「うん」
「そういうことを考える」
紅葉はしばらく黙っていた。
そして小さく笑った。
「それ、結構大きな変化じゃない?」
「そうなのかな」
「うん」
林夏が口を挟む。
「明日の飯は大事だからね」
二人が同時に林夏を見る。
「……何?」
紅葉が笑った。
「そういうところよ」
「何が?」
「なんでもない」
*
食事を終えた三人は、店へ戻った。
林夏は先に店へ入った。
月白と紅葉は少し後ろを歩いている。
「月白」
「うん」
「あなた、幸せそうね」
月白は少し驚いた。
「そう見える?」
「見える」
「……うん」
少しだけ考える。
「たぶん、幸せなんだと思う」
「たぶん?」
「まだ慣れてないから」
「幸せに?」
「うん」
紅葉は笑った。
「変なの」
「そう?」
「でも、悪くない」
月白も笑った。
二人は並んで歩いた。
*
その頃。
街の反対側では、七番が古い建物の前に立っていた。
そこには白澤がいた。
「久しぶり」
七番が言う。
白澤は振り返った。
「君か」
「まだ、この辺に来るんだね」
「たまに」
「組織には戻らない?」
白澤は少し考えた。
「分からない」
七番は笑った。
「珍しいね。君が分からないって言うの」
「最近、多いんだ」
「そう」
二人は少し離れた場所に立っていた。
「紅葉と会っている」
白澤が言った。
「うん」
「彼女は元気?」
「元気だよ」
「そう」
白澤はそれ以上聞かなかった。
七番が逆に聞く。
「月白は?」
「元気だった」
「会った?」
「見ただけ」
「話さなかったんだ」
「話さなかった」
七番は少し笑った。
「変わったね」
「君もだろう」
「そうかもしれない」
二人の間に沈黙が落ちる。
昔なら。
この二人は同じ目的のために動いていた。
今は違う。
どちらも、まだ自分の行き先を決めていない。
「また会うかもしれないね」
七番が言う。
「そのときは?」
「そのとき考える」
白澤は少し笑った。
「それでいい」
二人は別々の方向へ歩き始めた。
*
夜。
万事修理店。
林夏は夕食を作っている。
月白は今日買った本を読んでいた。
「月白」
「何?」
「明日、予定ある?」
「ないよ」
「じゃあ、どこか行く?」
月白は本から顔を上げた。
「林夏が決める?」
「今日は俺が決めようかな」
「どこ?」
「まだ決めてない」
月白は笑った。
「じゃあ、明日考えればいいね」
「うん」
二人は笑った。
その夜。
紅葉は部屋で、昼間の会話を思い出していた。
好きな人ができたあと。
自分は何が変わったのだろう。
七番のことを考える。
そして、自分自身のことを考える。
「……まだ、分からない」
紅葉は髪飾りに触れた。
けれど。
分からないことを、悪いことだとは思わなかった。
月白も。
七番も。
白澤も。
ユウも。
そして林夏も。
それぞれが、自分の気持ちを抱えながら歩いている。
恋は、人を別人にするものではない。
誰かを好きになったあとでも。
自分は自分のままだ。
ただ。
今まで見えなかったものが、少しだけ見えるようになることがある。
【感情:変化】
【関係:継続】
【本人:維持】
【未来:未確定】
その記録だけが残った。
そして朝になれば。
また、それぞれの一日が始まる。




