第92章 君の隣にいる人
午後の街は、いつもより静かだった。
林夏は店の前に椅子を出して、壊れた扇風機を修理していた。
月白はその隣で本を読んでいる。
「暑い」
林夏が言った。
「うん」
「暑いね」
「さっきからそれしか言ってない」
「暑いから」
月白は本から顔を上げた。
「じゃあ、冷たいもの買ってくる?」
「行く」
「仕事は?」
「扇風機が俺を待ってくれる」
「待ってないと思う」
二人で店を出た。
商店街を歩いていると、月白が小さな店の前で立ち止まった。
「これ」
「かき氷?」
「うん」
「食べよう」
二人で店に入る。
注文して席についた。
少しして、二つのかき氷が運ばれてくる。
林夏は一口食べた。
「冷たい」
「当たり前」
「でも、おいしい」
月白は笑った。
そのときだった。
店の外を、一人の男が通り過ぎた。
白澤だった。
彼は足を止めた。
ガラス越しに、月白が見えた。
そして、その向かいに林夏がいる。
二人は何か話している。
月白が笑う。
林夏も笑う。
白澤は、しばらくその光景を見ていた。
以前なら。
きっと店に入っていた。
声をかけていた。
月白を連れて帰ろうとしたかもしれない。
けれど。
今日は、入らなかった。
そのまま歩き出す。
*
「今、誰かいた?」
月白が窓の外を見る。
「誰?」
「……ううん」
「知り合い?」
「たぶん」
林夏は外を見た。
すでに誰もいない。
「行っちゃったみたい」
「うん」
月白は少し考えた。
「白澤かもしれない」
林夏は何も言わなかった。
「追わないの?」
「追わない」
「どうして?」
「月白が追いたいなら追えばいい」
月白は少し笑った。
「今日はいい」
「そっか」
それだけだった。
かき氷を食べ続ける。
特別な話はしなかった。
けれど月白は、少しだけ安心していた。
*
その頃。
白澤は一人で歩いていた。
端末を取り出す。
そこには、古い記録が残っている。
【月白】
【旧関係:成立】
【現在:未確定】
以前なら。
この記録を見て、何かを修正しようとした。
だが、今は違う。
白澤は画面を閉じた。
「……元気そうだった」
それだけ呟く。
少しだけ寂しかった。
けれど。
その寂しさを理由に、彼女のところへ行くことはしなかった。
それは、以前の自分ならできなかったことだった。
*
夕方。
白澤は古い公園に入った。
ベンチに座る。
しばらくすると、誰かが隣に座った。
「久しぶり」
白澤が振り向く。
紅葉だった。
「……君か」
「何、その顔」
「いや」
「月白を見た?」
白澤は少し驚いた。
「どうして分かる?」
「顔」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
白澤は苦笑した。
「見たよ」
「話した?」
「話してない」
「追わなかった?」
「追わなかった」
紅葉は少し黙った。
「変わったね」
「そうかな」
「昔なら、絶対に追ってた」
白澤は空を見上げた。
「……そうだった」
「今は?」
「今は」
少し考えてから答える。
「彼女が誰といるかより、彼女が自分で選んでいるかのほうが大事だと思えるようになった」
紅葉は何も言わなかった。
白澤が続ける。
「それに」
「何?」
「僕が隣にいなくても、彼女は笑えるみたいだから」
紅葉は少しだけ笑った。
「それ、寂しくない?」
「寂しいよ」
白澤は正直に答えた。
「でも、寂しいからって彼女を連れ戻す理由にはならない」
紅葉はしばらく白澤を見ていた。
「……それなら、いいんじゃない?」
「ありがとう」
「別に褒めてない」
「分かってる」
二人は並んで座った。
敵だった頃なら、こんな時間は存在しなかった。
*
夜。
万事修理店。
月白は今日買った本を読んでいた。
林夏は夕食を作っている。
「月白」
「何?」
「明日、何食べたい?」
「明日?」
「うん」
「どうして?」
「今日かき氷食べたから」
「関係ある?」
「ない」
月白は笑った。
「じゃあ、明日は……」
少し考える。
「林夏が作ったものがいい」
「任せて」
「何を作るかは?」
「これから考える」
「まだ決まってないんだ」
「明日のことだから」
月白は本を閉じた。
「そうだね」
二人で笑った。
その夜。
白澤は自分の部屋で、古い写真を一枚見ていた。
そこには、まだ幼かった頃の月白が写っている。
白澤は写真を机に置いた。
そして、新しい紙を一枚取り出した。
そこには、何も書かなかった。
以前なら。
未来を書いていた。
約束を書いていた。
守るべきことを書いていた。
けれど今は。
空白のままにした。
「君が決めればいい」
誰もいない部屋で、そう呟く。
端末が静かに光った。
【対象:月白】
【接触可能】
【介入可能】
白澤は画面を見た。
そして。
【介入:しない】
と入力した。
画面が消える。
それだけで、何かが大きく変わったわけではない。
月白は明日も林夏と会う。
紅葉は七番とまた会うかもしれない。
ユウは学校で、あの女の子と話すだろう。
誰も、白澤の選択を知らない。
それでも。
白澤にとっては、それが初めて自分自身で選んだ「何もしない」だった。
誰かを守るためではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
ただ。
好きな人の人生を、その人自身に返すために。
その夜。
街のどこかで、誰かが誰かを想っていた。
けれど、その想いが相手の人生を決めることはない。
好きだから近づく人もいる。
好きだから待つ人もいる。
好きだから離れる人もいる。
そして。
まだ、自分の気持ちを決められない人もいる。
それでも。
それぞれの明日は、ちゃんと続いていく。




