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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第90章 恋人のふりをする理由

昼過ぎ。


万事修理店の扉が開いた。


「すみません」


入ってきたのは、若い女性だった。


その後ろには、同じくらいの年齢の男性がいる。


二人とも少し緊張した顔をしていた。


「どうしました?」


林夏が聞く。


女性が一つの箱を取り出した。


「これ、直せますか?」


中には、古い腕時計が入っていた。


林夏が手に取る。


「動かない?」


「はい」


男性が答えた。


「祖父の形見なんです」


「なるほど」


林夏は裏蓋を確認した。


「直せると思います」


女性がほっとしたように笑った。


「よかった」


男性も笑った。


そのとき。


女性が突然、男性の腕をつかんだ。


「あと」


「ん?」


「この人、私の恋人です」


林夏が固まった。


月白も顔を上げた。


男性は明らかに困っている。


「……え?」


林夏が二人を見る。


「恋人?」


「はい」


女性は即答した。


男性は何も言わない。


「そうなんだ」


林夏はそれ以上聞かなかった。


だが、二人が店を出たあと。


月白が小さく言った。


「たぶん、恋人じゃないよ」


「なんで?」


「男性の顔」


「そんなに分かる?」


「分かる」


「すごいな」


「林夏が鈍いだけ」


「ひどい」


*


翌日。


その女性が一人で店に来た。


「時計、どうですか?」


「まだ修理中」


「そうですか」


彼女は椅子に座った。


少ししてから、ためらうように言った。


「昨日のことなんですけど」


「うん」


「あの人、恋人じゃありません」


「やっぱり」


「やっぱり?」


「月白がそう言ってた」


「……そうですか」


女性は苦笑した。


「実は、親に紹介するために恋人のふりをしてもらってるんです」


「なるほど」


「家では、ずっと結婚しろって言われていて」


彼女は少し疲れたように笑った。


「だから、適当に恋人がいるって言ったら、じゃあ連れてきなさいって」


「それで?」


「友達に頼んだんです」


林夏は頷いた。


「それで、その人は嫌じゃないの?」


「嫌ではないみたいです」


「じゃあ、問題ないんじゃない?」


女性は少し黙った。


「……でも」


「うん」


「最近、ふりをするのが嫌じゃなくなってきたんです」


林夏は何も言わなかった。


女性は自分でも困ったように笑った。


「これって、変ですよね」


「別に」


「でも、最初はただの約束だったんです」


「うん」


「一緒に食事して、親の前で恋人のふりをして、それが終わったら友達に戻る」


「うん」


「なのに最近、親の前じゃなくても会いたいと思うようになって」


林夏は少し考えた。


「それなら、本人に言えば?」


女性は苦笑した。


「それができたら苦労しません」


「なんで?」


「もし断られたら、今までの関係まで壊れるから」


月白が静かに言った。


「だから、怖いんだね」


女性は頷いた。


「はい」


*


その日の夕方。


男性が時計を受け取りに来た。


「直りました」


林夏が時計を渡す。


男性は嬉しそうに時計を見る。


「ありがとうございます」


「大事にしてね」


「はい」


男性が店を出ようとしたとき。


林夏が呼び止めた。


「一つだけ」


「はい?」


「昨日のこと」


男性の顔が少し固くなった。


「彼女から聞いた?」


「何を?」


「……何でもありません」


「そう?」


林夏は笑った。


「じゃあ、いいや」


男性は少し考えてから言った。


「……彼女、何か言ってました?」


「言ってない」


「そうですか」


それだけ言って、男性は店を出た。


月白が林夏を見る。


「聞かないの?」


「聞かない」


「どうして?」


「本人が話すまで」


月白は少し笑った。


「そうだね」


*


店の外。


男性は歩きながらスマートフォンを取り出した。


メッセージを打つ。


――今日、時間ある?


少し迷ってから送信する。


すぐに返事が来た。


――あるよ。


男性は立ち止まった。


もう一通送る。


――二人で話したい。


しばらく返事がなかった。


そして。


――分かった。


短い返事だった。


*


夜。


二人は駅前のベンチに座っていた。


「何?」


女性が聞く。


男性は腕時計を見る。


「これ、ありがとう」


「私じゃないよ。おじいちゃんの時計でしょ」


「うん」


少し沈黙する。


「それで?」


女性が聞いた。


男性は深呼吸した。


「もう、恋人のふりをしなくてもいいと思う」


女性の表情が固まった。


「……そう」


「うん」


「分かった」


立ち上がろうとする。


その腕を男性がつかんだ。


「待って」


「何?」


「そういう意味じゃない」


女性は振り返った。


「じゃあ、どういう意味?」


男性は少し困ったように笑った。


「恋人のふりをする必要がなくなったから」


一度、言葉を切る。


「今度は、本当に付き合ってみない?」


女性は何も言わなかった。


「……それ、本気?」


「本気」


「私が断ったら?」


「友達に戻る」


「戻れる?」


「努力する」


女性は少し笑った。


「何それ」


「分からないから」


「ずるい」


「ごめん」


女性はしばらく黙っていた。


そして。


「……じゃあ」


男性を見る。


「やってみようか」


「うん」


二人は笑った。


まだ、不安は残っている。


けれど。


今度は誰かに頼まれた恋人ではない。


自分たちで決めた関係だった。


*


その夜。


万事修理店。


林夏はラーメンを食べていた。


月白は向かいで本を読んでいる。


「ねえ、月白」


「何?」


「恋人のふりって、疲れそうだね」


月白は本から顔を上げた。


「そう?」


「だって、本当の気持ちを隠さないといけないから」


「でも」


月白は少し考えた。


「ふりをしているうちに、本当になることもあるのかもしれないね」


「なるほど」


林夏はラーメンを一口食べた。


「じゃあ、俺たちは?」


月白の手が止まった。


「……何?」


「いや」


林夏は笑った。


「なんでもない」


月白は少しだけ頬を赤くした。


「そういうところ、本当にずるい」


「また?」


「また」


二人の間に、小さな笑い声が落ちる。


窓の外では、夜の街が静かに流れている。


そして遠くでは。


ユウが昨日もらった青い鳥のキーホルダーを鞄につけたまま、家へ帰っていた。


紅葉は七番から届いた短いメッセージを見ていた。


――また、あの店に行かない?


紅葉は少し考える。


そして返信した。


――今度は私が店を選ぶ。


画面を閉じる。


誰かは、恋人になる。


誰かは、まだ分からない。


誰かは、過去の関係をもう一度見つめている。


誰かは、名前のない関係をそのまま続けている。


関係には、決められた順番なんてなかった。


そして。


決める時も、本人たちが選べばいい。


【関係:更新】


【開始条件:多様】


【継続条件:本人の意思】


【結論:未設定】


今日もまた。


世界は、誰かの代わりに恋をしてはくれなかった。

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