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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第86章 昔の名前を呼ぶとき

雨は、昼を過ぎても止まなかった。


万事修理店の前を、傘を差した人たちが次々と通り過ぎていく。


林夏は店の奥で、昨日預かった古いラジオを分解していた。


「これ、直るかな」


月白が隣から覗き込む。


「たぶん」


「たぶん?」


「壊れてる場所がまだ分からないから」


「それなら、直るかどうかも分からない?」


「そういうこと」


月白は少し考えた。


「じゃあ、直してみないと分からないんだね」


「うん」


林夏は笑った。


「人間関係と一緒」


「……またそれ?」


「便利なんだよ、この考え方」


月白は呆れたように笑った。


そのとき、店の扉が開いた。


紅葉だった。


昨日借りた傘を持っている。


「返す」


「早いね」


「借りたものは返す」


紅葉は傘を壁に立てかけた。


「それだけ?」


「それだけ」


そう言って帰ろうとした。


けれど、扉に手をかけたところで止まった。


「……七番のこと、聞きたい」


林夏は工具を置いた。


「うん」


「昔、あいつと私は同じ場所にいた」


「知ってる」


「でも、三年前から記録上は存在しなくなっていた」


月白が静かに聞く。


「七番が?」


「私が」


紅葉は答えた。


「私が死んだことになったとき、七番も一緒に記録から外されたらしい」


「どうして?」


「分からない」


紅葉は少しだけ目を伏せた。


「だから、本人に聞く」


林夏は頷いた。


「行ってらっしゃい」


「……あんた、本当に何も聞かないのね」


「聞いてほしいなら聞くけど」


「いや」


紅葉は首を振った。


「自分で聞く」


「じゃあ、それでいい」


紅葉は店を出た。


月白が窓の外を見る。


「追わないの?」


「追わない」


「心配じゃない?」


「心配だけど」


林夏はラジオを見ながら言った。


「紅葉が自分で聞きたいって言ったから」


月白は少し笑った。


「そういうところだね」


「何が?」


「別に」


「またそれ?」


月白は答えなかった。


*


七番は、古い駅のホームにいた。


電車を待っているわけではない。


ただ、雨を避けるために屋根の下に立っていた。


そこへ紅葉が来た。


「七番」


彼は振り返った。


「……来たんだ」


「話がある」


「分かった」


二人は向かい合った。


しばらく、どちらも話さなかった。


先に口を開いたのは紅葉だった。


「私が死んだことになった理由を知ってる?」


七番は答えなかった。


「知らない?」


「全部は知らない」


「じゃあ、知っていることだけ話して」


七番は少し迷った。


「三年前、君の命軌が突然消えた」


「消えた?」


「正確には、観測できなくなった」


「それで?」


「組織は君を死亡扱いにした」


紅葉の眉が動いた。


「本人を確認せずに?」


「そう」


「……馬鹿みたい」


「そうかもしれない」


七番は静かに答えた。


「でも、当時の僕たちはそれを疑わなかった」


紅葉は彼を見つめた。


「あなたも?」


「僕も」


「どうして?」


七番は少しだけ笑った。


「怖かったから」


紅葉は黙った。


「組織の判断を疑えば、自分も疑われる。自分の命軌まで修正されるかもしれない。だから、決められた記録を信じた」


「……それで、私が死んだと思った?」


「うん」


「三年間?」


「うん」


紅葉は目を閉じた。


怒っているようにも見えた。


泣きそうにも見えた。


けれど、どちらでもなかった。


「じゃあ、昔の私は?」


七番は答えなかった。


「昔、私が好きだったって言ったよね」


「言った」


「今も?」


七番は長く沈黙した。


そして、首を横に振った。


「分からない」


紅葉は少し驚いた。


「……分からない?」


「三年間、君は死んだと思っていた」


「うん」


「その間に、僕の中でもいろいろ変わった」


「じゃあ、もう好きじゃない?」


「それも分からない」


紅葉はしばらく彼を見た。


そして、小さく笑った。


「正直ね」


「君に嘘をつきたくないから」


「それならいい」


紅葉はベンチに座った。


「私も、まだ分からない」


「何が?」


「あなたのこと」


七番も隣に座った。


少し距離を空けて。


「それでいいと思う」


「……昔は、そんなこと言わなかった」


「昔は、答えを急いでたから」


紅葉は空を見上げた。


「今は?」


「待てるようになった」


雨音だけが二人の間に落ちた。


*


同じ頃。


万事修理店では、月白が林夏の作業を見ていた。


「ねえ」


「ん?」


「紅葉と七番って、どうなると思う?」


林夏は少し考えた。


「分からない」


「即答だね」


「本人たちも分からないんだから、俺たちが分かるわけない」


月白は笑った。


「そうだね」


「でも」


林夏はラジオの内部を覗き込みながら続けた。


「分からないままでも、一緒にいることはできるんじゃない?」


月白はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。


「……そういうところ、ずるい」


「何が?」


「なんでも簡単に言う」


「難しく考えても、ラジオは直らないよ」


「そこ?」


「そこ」


月白は笑った。


それから、林夏の肩に少しだけ寄りかかった。


林夏は何も言わなかった。


ただ、そのまま作業を続けた。


しばらくして、ラジオから小さな音が鳴った。


「お」


林夏が顔を上げる。


「直った」


古いラジオから、途切れ途切れの音楽が流れ始めた。


月白はその音を聞きながら言った。


「壊れたものって、元と同じにはならないんだね」


「うん」


「でも、使えるようにはなる」


「そういうこともある」


月白は微笑んだ。


「それなら、悪くないね」


窓の外では、雨が少しずつ弱くなっていた。


駅では、紅葉と七番がまだ話している。


昔の名前。


昔の約束。


昔の気持ち。


どれも、今の二人を決めるものではない。


ただ、過去として残っている。


そして二人は、まだ何も決めていなかった。


【旧関係:存在】


【現在関係:未定義】


【再選択:可能】


その表示を、二人は知らない。


知らないまま、自分たちの言葉で話している。


それで十分だった。

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