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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第85章 壊れた傘と、言えなかったこと

朝から雨が降っていた。


万事修理店の軒先には、昨日まで何もなかったはずの水たまりがいくつもできている。


林夏は店の前に立ち、空を見上げた。


「……今日、雨か」


「見れば分かる」


月白が隣で言った。


「いや、確認しただけ」


「何を?」


「今日が雨の日だってこと」


「……」


月白は少し考えてから、傘を開いた。


「確認できた?」


「できた」


「じゃあ、入って」


「はい」


二人で一本の傘に入って店へ戻る。


その途中、林夏はふと思った。


最近、こういうことが増えた気がする。


一緒に歩く。


一緒に食べる。


一緒に本を読む。


そして、雨の日には同じ傘に入る。


特別な約束をしたわけではない。


それでも、いつの間にか当たり前になっていた。


店の中へ入ると、林夏は濡れた靴を脱いだ。


「月白、今日の昼は何食べる?」


「まだ朝だけど」


「だから今のうちに考えておく」


「……ラーメン?」


「いいね」


「昨日も食べた」


「昨日は昨日」


月白は小さく笑った。


そのときだった。


店の扉が開いた。


「すみません」


若い男女が入ってきた。


男は壊れた傘を持っている。


女は少し不機嫌そうな顔をしていた。


「傘の修理ってできますか?」


林夏は傘を受け取った。


骨が一本、完全に曲がっている。


「できますよ」


「よかった……」


男が安心したように息を吐いた。


女はその横で腕を組んでいる。


「でも、それだけじゃないんです」


「え?」


男が女を見る。


「昨日も言ったでしょ」


「何を?」


「……もういい」


林夏は傘を見た。


それから二人を見た。


「傘より先に、そっちを修理したほうがいい?」


「え?」


二人が同時に言った。


月白が横で小さく笑った。


「林夏」


「はい」


「それは修理できないと思う」


「そうかな」


「たぶん」


女が困ったように笑った。


「……実は、この傘、二人で買ったんです」


「なるほど」


「付き合い始めたときに」


男が続ける。


「だから、壊れたら買い替えようって言ったんですけど……」


「私は直したいって言ったの」


女が言った。


「まだ使えるから」


「でも、もう古いだろ」


「古いから何?」


「いや……」


男が言葉を止めた。


林夏は傘を机の上に置いた。


「直せますよ」


「本当ですか?」


「うん。骨一本なら、そんなに難しくない」


男は少し安心したように笑った。


女も同じように笑った。


けれど、二人の間にはまだ何かが残っている。


林夏は工具を取り出した。


「じゃあ、ちょっと待っててください」


作業を始める。


金属を外し、曲がった部分を確認する。


月白は隣でその様子を見ていた。


しばらくして、彼女が小さな声で言った。


「壊れたから、捨てる必要はないんだね」


「物ならね」


「……物なら?」


「人は分からない」


月白は少しだけ考えた。


「じゃあ、関係は?」


「それも本人たち次第じゃない?」


林夏は工具を動かしながら答えた。


「直したいなら直せばいいし、買い替えたいなら買い替えればいい」


「簡単に言うね」


「だって俺が決めることじゃないから」


月白は黙った。


それから、少しだけ笑った。


「そういうところ、好きかも」


林夏の手が止まった。


「……今、なんて?」


「何も言ってない」


「言ったよね?」


「気のせい」


「絶対言った」


月白は知らないふりをして、窓の外を見た。


その向こうでは、雨がまだ降っている。


やがて、修理が終わった。


林夏は傘を開いて確認する。


「ほら。使える」


女が傘を受け取った。


「ありがとうございます」


男も礼を言った。


二人は店を出ようとした。


けれど、扉の前で女が立ち止まった。


「……ねえ」


男が振り返る。


「何?」


「この傘、もう少し使ってみない?」


男は少し驚いた顔をした。


そして、笑った。


「うん」


二人は一本の傘に入って、店を出ていった。


林夏はその背中を眺めていた。


「仲直りしたのかな」


「分からない」


月白が答える。


「ただ、一緒に帰った」


「それだけ?」


「それだけでいいんじゃない?」


林夏は笑った。


「確かに」


店の外では、二人の傘がゆっくり遠ざかっていく。


その少し先に、紅葉が立っていた。


傘も差さずに。


「……何してるんだ、あいつ」


林夏が窓から見つけた。


紅葉は店の中を見た。


「別に」


「雨降ってるけど」


「知ってる」


「傘は?」


「ない」


「買えば?」


「……うるさい」


林夏は自分の傘を一本持ってきた。


「ほら」


紅葉は傘を見た。


「いらない」


「濡れるよ」


「別に」


「風邪ひくよ」


「ひかない」


月白が紅葉を見た。


「七番は?」


紅葉の表情が少し変わった。


「……帰った」


「一緒じゃないの?」


「今日は別」


林夏は何も言わなかった。


紅葉も何も言わない。


しばらくして、紅葉は傘を受け取った。


「借りるだけだから」


「どうぞ」


「返すから」


「いつでもいいよ」


紅葉は店の軒下に入った。


そして、小さく息を吐いた。


「……あいつ、昔と変わってない」


「七番?」


「そう」


「何が?」


「自分のことを後回しにするところ」


林夏は少し考えた。


「それ、紅葉もじゃない?」


「……」


紅葉は黙った。


月白が横から言う。


「似ているのかもしれないね」


「似てない」


即答だった。


けれど、その声はいつものように強くなかった。


その頃。


七番は少し離れた場所で、一人歩いていた。


手には、古い組織章がある。


もう使われていないものだった。


彼はそれを見下ろした。


そして、ポケットにしまった。


端末が一度だけ鳴った。


【旧所属:命運修正機構】


【現在所属:未確定】


七番は画面を見た。


「……まだ消えてないのか」


しばらく考えたあと、端末を閉じる。


連絡はしなかった。


追いかけることもしなかった。


ただ、歩いた。


紅葉が自分で決めるまで。


その選択を待つこともまた、自分で決めたことだった。


店の中では、林夏が昼食の準備をしている。


「月白」


「何?」


「やっぱりラーメン食べに行こう」


「雨なのに?」


「雨だから」


「理由になってない」


「雨の日のラーメンは美味しい」


月白は少し考えた。


「……じゃあ、行こうか」


「決まり」


林夏は嬉しそうに笑った。


窓の外では、まだ雨が降っている。


誰かは誰かと歩き。


誰かは一人で歩き。


誰かは、まだ自分の気持ちを決めていない。


それでも。


歩く方向を決めるのは、いつだって本人だった。


端末の隅に、小さな文字が浮かぶ。


【関係:変化中】


【固定:なし】


【選択権:本人】


そして、その表示は誰にも見られないまま消えた。

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