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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第83章 敵だった頃の名前

朝。


紅葉は、いつもより早く店を出た。


昨日の封筒は。


鞄の中に入れたままだった。


返事は書いていない。


捨てもしていない。


それだけだった。


「……面倒ね」


小さく呟く。


向かった先は。


昨日と同じ公園だった。


ベンチには。


すでに男が座っている。


「早いな」


「あなたが早すぎるのよ」


「待つのが嫌だったから」


「……そう」


紅葉は少し離れた場所に立った。


男は笑う。


「座らないのか?」


「座る理由がない」


「昨日は座った」


「昨日は気分だった」


「今日は?」


「分からない」


男は何も言わなかった。


紅葉も。


何も言わない。


二人の間を。


朝の風が通り抜ける。


しばらくして。


男が言った。


「名前、覚えてる?」


「馬鹿にしてる?」


「そうじゃない」


男は少し笑った。


「昔、組織にいた頃は、お互い本当の名前で呼ばなかっただろ」


紅葉は黙った。


確かに。


あの頃。


名前よりも。


番号や役割で呼ばれることのほうが多かった。


「私はあなたを『七番』って呼んでた」


「俺は君を『赤』って呼んでた」


「……嫌な名前」


「似合ってたけど」


「殴るわよ」


「昔から怖いな」


「昔から?」


「昔から」


二人は。


少しだけ笑った。


⸻


「どうして今さら会いたいの?」


紅葉が聞いた。


男はすぐには答えなかった。


「昨日、言っただろ」


「聞いた」


「なら分かるだろ」


「分からないから聞いてるの」


男は空を見る。


「君が死んだって聞いた」


紅葉の表情が変わった。


「……誰から?」


「組織から」


「いつ?」


「三年前」


紅葉は。


しばらく黙った。


「私は生きてる」


「今はな」


「何、その言い方」


「昔の記録では、君は三年前に消えたことになってる」


紅葉の目が細くなる。


「……消えた?」


男は頷いた。


「命軌の再調整対象になったって聞いた」


「そんな記録、見たことない」


「俺も詳しくは知らない」


「なら、どうしてここに来たの?」


男は。


紅葉を見る。


「確かめたかった」


「何を?」


「君が本当に君なのか」


紅葉は笑った。


「馬鹿じゃないの」


「そうかもしれない」


「それで?」


「君が生きているなら、それでよかった」


紅葉は。


何も言わなかった。


⸻


昼。


万事修理店。


林夏はカウンターで昼食を食べていた。


月白は本を読んでいる。


澪は端末を見ている。


ユウは学校から帰ってきたばかりだった。


「紅葉は?」


月白が聞く。


「朝からいない」


林夏が答える。


「昨日の人?」


「たぶん」


「まだ会ってるのかな」


「たぶん」


「林夏」


「ん?」


「最近、その言葉多くない?」


「何が?」


「たぶん」


「便利だから」


澪が端末から顔を上げた。


「便利というより、確定していない情報を確定させないための言葉」


「澪、たまに難しいな」


「事実を言っただけ」


ユウが笑った。


「でも、紅葉さんが誰かと会ってるなら、ちょっと気になる」


林夏は箸を止めた。


「気になるなら、帰ってきた本人に聞けばいい」


「聞いていいのかな」


月白が本から顔を上げる。


「話したくなったら、話してくれるよ」


林夏は頷いた。


「そういうこと」


澪は端末を見る。


一瞬だけ。


画面に文字が浮かんだ。


【旧記録:照合】


澪の指が止まる。


「……あれ?」


「どうした?」


林夏が聞く。


澪は画面を見せた。


【対象:紅葉】

【過去記録:欠落】

【削除理由:不明】

【再照合:開始】


月白の表情が少し変わる。


「紅葉の記録?」


「そうみたい」


林夏は。


しばらく画面を見る。


「本人が知らないことなら、勝手に調べないほうがいいんじゃないか?」


澪は少し考えた。


そして。


画面を閉じた。


「そうだね」


【再照合:停止】


「本人が知りたいと思った時に、自分で調べればいい」


澪はそう言った。


⸻


夕方。


紅葉が帰ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


林夏が振り返る。


月白も。


紅葉を見る。


「どうだった?」


紅葉は靴を脱ぐ。


「昨日と同じ」


「同じ人?」


「そう」


「何話したの?」


紅葉は。


少し黙った。


「昔の話」


林夏は頷いた。


「そっか」


「それだけ?」


紅葉が聞く。


「聞いてほしいなら聞くけど」


「……」


紅葉は林夏を見る。


「昔、私たちは同じ組織にいた」


月白が静かに聞く。


「彼も?」


「そう」


「今は?」


「分からない」


紅葉は椅子に座る。


「たぶん、まだあそこにいる」


「敵?」


「……そうなるかもしれない」


林夏は。


少しだけ黙った。


「好きなの?」


紅葉が。


ものすごい勢いで振り返った。


「なんでそうなるのよ!」


「昨日、好きだったって言ってたから」


「それは向こうが言っただけ!」


「じゃあ、紅葉は?」


「私は――」


そこで。


言葉が止まった。


月白は。


何も言わなかった。


林夏も。


急かさなかった。


紅葉は目を逸らす。


「……分からない」


「そっか」


「それだけ?」


「うん」


「何よ、その反応」


「分からないなら、分からないでいいだろ」


紅葉は。


少しだけ驚いた顔をした。


「……あんた、本当にそういうところだけは変にまともね」


「だけ?」


「だけ」


「ひどいな」


月白が笑った。


⸻


夜。


紅葉は店の外に出た。


その手には。


昨日の封筒がある。


少し離れた場所に。


男が立っていた。


「来たのか」


「話がある」


「うん」


紅葉は封筒を渡した。


男が受け取る。


「これは?」


「返事」


男は封筒を開ける。


中には。


一枚の紙。


短い文章だけだった。


【また会ってもいい】


男は。


しばらく動かなかった。


「それだけ?」


「それだけ」


「好きとは書いてない」


「書く必要ある?」


「ないのか?」


「知らない」


男は笑った。


「昔と変わらないな」


「何が?」


「答えを簡単に渡さないところ」


紅葉は。


少しだけ目を逸らす。


「昔は、自分で答えを決めることができなかった」


「今は?」


「今は違う」


「だから?」


紅葉は。


男を見る。


「あなたと会うかどうかも」


「うん」


「あなたを好きになるかどうかも」


男は黙って聞いている。


「私が決める」


「分かった」


「あなたにも、あなたの道がある」


「分かってる」


「だから」


紅葉は。


一歩だけ近づいた。


「私のために、あなたの人生を変えないで」


男は。


少し寂しそうに笑った。


「それは難しいな」


「どうして?」


「もう変わり始めてるから」


紅葉は何も言えなかった。


二人の間に。


長い沈黙が落ちる。


それでも。


どちらも離れなかった。


⸻


その夜。


紅葉が店に戻ると。


林夏はもう寝ていた。


月白だけが。


本を読んでいる。


「おかえり」


「ただいま」


「会ってきた?」


「うん」


「どうだった?」


紅葉は少し考えた。


「……悪くなかった」


月白は。


それ以上聞かなかった。


紅葉も。


それ以上話さなかった。


ただ。


自分の部屋へ戻る前に。


紅葉は一度だけ振り返った。


「月白」


「うん?」


「もし」


紅葉は。


少し迷ってから言った。


「昔好きだった人が、今は敵だったら」


月白は。


しばらく考えた。


「それでも、好きになることはあると思う」


「……そう」


「でも」


月白は本を閉じた。


「好きだから、同じ道を選ばなきゃいけないわけじゃない」


紅葉は。


静かに笑った。


「そうね」


部屋へ向かう。


その背中を見ながら。


月白は小さく呟いた。


「私も、そうだったのかな」


⸻


遠く離れた場所。


古い建物の地下。


一枚の記録が。


静かに開かれていた。


【対象:紅葉】


【旧所属:命運修正機構】


【記録:消失】


【再登録:なし】


その下に。


新しい文字が浮かぶ。


【旧接触者:七番】


【現在所属:確認不能】


【関係:未定義】


そして。


最後に。


一行。


【再接触:発生】


画面が暗くなる。


誰も。


その記録を見ていない。


まだ。


二人自身でさえ。


この再会が。


何を変えるのかを知らなかった。

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