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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第82章 それぞれの約束

朝。


万事修理店の前を、昨日までの雨で濡れた風が通り抜けていった。


林夏は店の扉を開ける。


「……今日は晴れたな」


昨日まで雨だったことが嘘みたいだった。


空は高く、雲も少ない。


林夏は店先を掃きながら、ふと昨日のことを思い出した。


月白と二人で過ごした一日。


どこにも出かけなかった。


大したこともしていない。


それでも、不思議と楽しかった。


「今日は何しようかな」


口にしてから。


林夏は少し考えた。


「……月白、来るかな」


その直後。


「来るよ」


後ろから声がした。


「うわ」


林夏が振り返る。


月白が立っていた。


「おはよう」


「おはよう」


「今、私のこと考えてた?」


「考えてた」


「……正直だね」


「来るかなって」


月白は少し笑った。


「来た」


「うん」


「じゃあ、考える必要なかったね」


「それもそうだな」


二人で笑う。


その様子を。


少し離れた場所から紅葉が見ていた。


「朝から何やってるのよ」


「おはよう、紅葉」


「おはよう」


紅葉は店に入る。


そして。


机の上に一枚の封筒を置いた。


「これ」


「何?」


林夏が見る。


「私宛て」


「誰から?」


「昔の知り合い」


月白が封筒を見る。


「男?」


紅葉が一瞬止まった。


「……なんでそうなるのよ」


「違う?」


「知らないわよ」


紅葉は封筒を裏返す。


差出人の名前は書かれていなかった。


ただ。


小さな文字で。


【会いたい】


とだけ書かれている。


林夏が覗き込む。


「これ、かなり恋愛っぽいな」


「うるさい」


「違うの?」


「……昔の仲間よ」


紅葉は封筒を持ち上げる。


「昔、一緒に仕事をしていた」


「それだけ?」


「それだけ」


そう言って。


紅葉は少し黙った。


「……たぶん」


林夏と月白が顔を見合わせる。


「たぶん?」


「昔のことなんて、全部覚えてるわけじゃないでしょう」


紅葉は封筒を鞄に入れた。


「会うかどうかも、まだ決めてない」


「そっか」


林夏はそれ以上聞かなかった。


月白も聞かなかった。


紅葉は二人を見て。


少しだけ意外そうな顔をした。


「……聞かないの?」


「聞いてほしいなら聞くけど」


林夏が言う。


「聞いてほしくないなら聞かない」


紅葉は。


ほんの少しだけ笑った。


「そういうところ、ずるいのよ」


「なんで?」


「知らない」


そう言って。


紅葉は奥の椅子に座った。


⸻


昼前。


店に一人の女性が入ってきた。


三十歳くらいだろうか。


手には古い腕時計を持っている。


「これ、直せますか?」


林夏が時計を見る。


「見てみます」


女性は時計を渡した。


「父のものなんです」


「思い出の品?」


「はい」


林夏は裏蓋を開ける。


「壊れてるというより、長く使ってなかったみたいですね」


「そうですか」


女性は少し安心したように笑った。


そのとき。


月白がふと気づく。


女性の左手に。


指輪があった。


「結婚してるんだ」


林夏が小声で言う。


「見れば分かるでしょう」


月白も小声で返す。


「そうだけど」


女性は二人の会話を聞いていたのか。


少し笑った。


「去年、結婚したんです」


「おめでとうございます」


月白が言う。


「ありがとうございます」


女性は腕時計を見る。


「実はこれ、父が母に贈ったものなんです」


林夏の手が止まった。


「じゃあ、お母さんに?」


「渡そうと思っています」


「それなら、ちゃんと動くようにします」


「お願いします」


女性は頭を下げた。


しばらくして。


彼女が帰ったあと。


月白が言った。


「恋愛って、いろんな形があるね」


「そうだな」


林夏は修理中の時計を見る。


「始まったばかりの恋もあるし」


「うん」


「終わった恋もある」


「うん」


「終わったと思ってたのに、まだ続いてることもある」


月白が林夏を見る。


「それって誰のこと?」


「知らない」


「林夏のこと?」


「違う」


「本当に?」


「たぶん」


月白は笑った。


「また、たぶん」


「便利だからな」


⸻


午後。


紅葉は一人で店を出た。


「行ってくる」


林夏が顔を上げる。


「気をつけて」


「子供じゃない」


「知ってる」


月白が言った。


「いってらっしゃい」


紅葉は二人を見る。


「……何よ」


「別に」


「その顔、気になるんだけど」


「気をつけてって言っただけ」


「分かったわよ」


紅葉は歩き出す。


その背中を見送ったあと。


月白が言った。


「会いに行くのかな」


「たぶん」


「また、たぶん」


「紅葉が決めることだろ」


月白は少し笑った。


「うん」


⸻


紅葉が向かったのは。


第七街区の外れにある小さな公園だった。


ベンチに。


一人の男が座っている。


黒い髪。


古いコート。


紅葉は少し離れたところで立ち止まった。


「久しぶり」


男が顔を上げる。


「……来てくれたんだな」


「呼んだのはあなたでしょう」


「そうだった」


男は笑う。


「昔と変わらないな」


「あなたも」


「嘘だ」


「そうね」


二人とも。


少し笑った。


しばらく。


何も話さなかった。


男が言う。


「今でも、あの組織にいるのか?」


「いる」


「そうか」


「何?」


「いや」


男は空を見る。


「少し安心した」


紅葉は眉を寄せる。


「どうして?」


「お前がどこにもいなくなっていたら、嫌だったから」


紅葉は黙った。


「……それだけ?」


「それだけじゃない」


男は彼女を見る。


「昔、お前に言えなかったことがある」


紅葉の目が少し細くなる。


「言わなくていい」


「まだ何も言ってない」


「顔に出てる」


「じゃあ、言わない」


「そうして」


男は笑った。


「相変わらずだな」


紅葉はベンチに座った。


二人の間には。


少しだけ距離があった。


近すぎない。


遠すぎない。


男は何も言わなかった。


紅葉も何も言わなかった。


それでも。


二人とも帰ろうとはしなかった。


⸻


その頃。


万事修理店では。


林夏と月白が昼食を食べていた。


「紅葉、まだ帰ってこないね」


「うん」


「何話してるんだろう」


「さあ」


「気にならない?」


「少し」


「俺も」


二人で顔を見合わせる。


そして。


同時に笑った。


「でも、聞かない」


月白が言う。


「うん」


林夏は箸を置く。


「本人が話したくなったら、聞けばいい」


月白は。


その言葉をしばらく考えていた。


「……そういうところ」


「ん?」


「私は好きかも」


林夏が止まった。


「……何が?」


「今の考え方」


「なんだ」


「何だと思ったの?」


「いや」


林夏は目を逸らす。


「別に」


月白は笑った。


「顔、赤いよ」


「暑いだけ」


「今日はそんなに暑くないよ」


「……ラーメン食べたから」


「チャーハンじゃなくて?」


「それもある」


月白は楽しそうに笑った。


⸻


夕方。


紅葉が戻ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


林夏が言う。


月白も振り返る。


「どうだった?」


紅葉は鞄を置いた。


「普通」


「普通?」


「昔の知り合いと話しただけ」


「そっか」


それ以上。


誰も聞かなかった。


紅葉は少し黙る。


そして。


「……昔、私のことを好きだったらしい」


林夏が目を丸くした。


月白も少し驚く。


「らしい?」


「本人がそう言った」


「それで?」


「知らない」


紅葉は椅子に座る。


「昔の私は、そういうことを考える余裕がなかったから」


月白が静かに聞く。


「今は?」


紅葉は答えなかった。


しばらくして。


「今も、分からない」


それだけ言った。


でも。


その表情は。


いつもの紅葉より少しだけ柔らかかった。


⸻


夜。


月白と林夏は。


店の前に並んで座っていた。


「紅葉、少し嬉しそうだったね」


「そうだな」


「林夏は?」


「何が?」


「嬉しくない?」


「なんで俺が?」


「分からない」


月白は少し笑った。


「でも、誰かに好きだと言われるのって、少し嬉しいんじゃない?」


林夏は考える。


「好きって言われるのは、嬉しいと思う」


「じゃあ」


月白が言う。


「私が言ったら?」


林夏は。


月白を見る。


月白も。


林夏を見る。


数秒。


何も言わない。


「……それは」


林夏が口を開く。


「その時になってから考える」


月白は。


少しだけ目を細めた。


「ずるい」


「何で?」


「答えを明日に送った」


林夏は笑った。


「明日のことは、明日考えればいいだろ」


月白も笑う。


「うん」


そして。


少しだけ。


林夏の肩に寄りかかった。


今度は。


人混みもない。


理由もない。


ただ。


そこにいたかったから。


店の中では。


紅葉が一人。


昼間にもらった封筒を開いていた。


中には。


短い一枚の紙だけ。


【また会いたい】


紅葉は。


しばらくそれを見つめる。


そして。


紙を折り直した。


捨てなかった。


返事も書かなかった。


ただ。


机の引き出しにしまった。


その頃。


遠く離れた場所では。


白澤が閉じた端末を机の上に置いていた。


画面には。


何も表示されていない。


彼はそれを開かなかった。


ただ。


窓の外を見ていた。


同じ夜。


同じ世界で。


誰かが誰かを待っている。


誰かが誰かを好きになっている。


誰かが過去を思い出している。


そして。


誰もが。


自分の答えをまだ決めていない。


【関係:継続】


それだけが。


静かに記録された。

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