第八章 それぞれの理由
雨の中を、三人は走っていた。
先頭を走るのは林夏。
その後ろに月白。
最後尾に紅葉。
そして――
「右!」
紅葉が叫んだ。
林夏が反射的に右へ曲がる。
直後。
左側の建物が、音もなく切り裂かれた。
壁の一部が滑り落ちる。
「うわ……」
林夏が振り返った。
「今の、当たってたら?」
「死ぬ」
「やっぱり?」
「だから走って!」
「了解!」
林夏はさらに速度を上げた。
月白も続く。
紅葉は後ろを振り返りながら、迫ってくる修正執行体を確認していた。
「五体」
「多いな」
林夏が言った。
「六体になった」
「増えた!」
「七体」
「報告しなくていい!」
林夏が叫ぶ。
紅葉は思わず笑いそうになった。
こんな状況で。
追われているのに。
この男は、どうしてこんなにも普通でいられるのだろう。
けれど。
よく見ると、林夏の手は震えていた。
走りながら、何度も後ろを確認している。
息も乱れている。
怖くないわけではない。
ただ、怖がることと、動くことを分けている。
紅葉には、それが少し不思議だった。
「林夏」
「何?」
「一つ聞く」
「どうぞ」
「なぜ、私を逃がす?」
林夏は少し考えた。
「君が逃げたいから」
「それだけ?」
「それ以上いる?」
紅葉は答えなかった。
「私が敵だったとしても?」
「さっきまで敵だっただろ」
「なら、信用できないはず」
「信用してないよ」
林夏は即答した。
「え?」
「まだ会ったばかりだし」
紅葉が黙る。
「でも、信用してないからって、殺されていい理由にはならないだろ」
紅葉は前を向いた。
胸の奥に、何かが引っかかった。
命運修正機構では、すべてがもっと簡単だった。
命軌が違えば異常。
異常なら修正。
修正に抵抗するなら排除。
誰が悪いのか。
誰が正しいのか。
そんなことを考える必要はなかった。
命令がある。
だから従う。
それだけだった。
「……変なの」
紅葉が呟く。
「また言った?」
「何度でも言う」
「じゃあ、もう慣れた」
三人は古い倉庫の中へ飛び込んだ。
林夏が扉を閉める。
紅葉が周囲を確認する。
「ここなら少し時間が稼げる」
「よかった」
林夏はその場に座り込んだ。
「疲れた……」
月白も壁にもたれた。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
林夏は笑った。
「今日は『たぶん』が多いな」
紅葉は入口のほうを見ていた。
「二人とも休んで」
「紅葉は?」
「見張る」
「一人で?」
「問題ない」
「交代しようか?」
「必要ない」
「でも――」
「私は戦える」
紅葉の声が少し強くなった。
林夏は黙った。
月白も紅葉を見た。
「……分かった」
林夏はそれ以上言わなかった。
しばらくして。
月白が小さな声で聞いた。
「紅葉」
「何?」
「どうして、命運修正機構に入ったの?」
紅葉の表情が少し硬くなった。
「必要だったから」
「誰に?」
「私に」
「自分で決めたの?」
「……」
紅葉は答えなかった。
代わりに、窓の外を見た。
「私には、昔から命軌がなかった」
月白が目を上げる。
「なかった?」
「正確には、誰かに決められていた」
紅葉はゆっくり話した。
「何を学ぶか」
「誰に仕えるか」
「どこで戦うか」
「誰を守るか」
「誰を殺すか」
一つ一つ。
まるで他人の人生について話しているようだった。
「私は、それが普通だと思っていた」
「……」
「命運修正機構に入れば、少なくとも自分の役割が分かる」
林夏が聞いた。
「だから入った?」
「そう」
「後悔してる?」
紅葉は少し考えた。
「分からない」
その答えに、林夏は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
「それでいいと思う」
「何が?」
「分からないなら、今すぐ決めなくてもいい」
紅葉が振り返った。
「あなたは、いつもそれね」
「何が?」
「明日のことは、明日考える」
林夏は笑った。
「便利だから」
「……」
月白が小さく笑う。
紅葉も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そのとき。
倉庫の外から音がした。
――カツ。
――カツ。
三人の表情が変わる。
「来た」
紅葉が立ち上がった。
林夏も立つ。
「逃げる?」
「今度は無理」
紅葉が刃を抜いた。
「ここで止める」
月白が言った。
「一緒に戦う」
「月白」
「嫌」
「……」
「あなた一人に任せない」
紅葉は月白を見た。
そして林夏を見る。
「あなたは?」
林夏は少し考えた。
倉庫の隅に置かれていた古い工具箱を開く。
中から一本の鉄パイプを取り出した。
「俺も戦う」
紅葉が眉を上げる。
「修理屋じゃなかった?」
「今日は臨時休業」
「武器は?」
「これ」
林夏が鉄パイプを持ち上げる。
紅葉は無言でそれを見る。
「……それで?」
「殴る」
「単純ね」
「分かりやすいだろ」
月白が笑った。
次の瞬間。
倉庫の扉が吹き飛んだ。
白い修正執行体が一斉に侵入する。
赤い光が三人を捉える。
『対象確認』
『異常因子、三名』
紅葉が一歩前へ出る。
「来るよ」
月白が隣に立つ。
「うん」
林夏が鉄パイプを肩に担ぐ。
「三人なら、なんとかなるだろ」
紅葉が横目で見る。
「根拠は?」
「ない」
「……」
「でも、三人いる」
紅葉は少し黙った。
そして。
「それで十分かもね」
三人は同時に走り出した。
その瞬間。
倉庫の天井に、見たことのない巨大な命軌が浮かび上がった。
三本の線。
それぞれ別の方向へ伸びていたはずの線が――
今。
一本の場所で、重なり始めていた。




