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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第七章 敵なのに、少し変な人

食堂の空気が、完全に止まった。


 女の手には、細い刃。


 月白は立ち上がったまま、彼女を見ている。


 林夏は――


 まだ箸を持っていた。


「……」


「……」


「……」


 誰も動かない。


 最初に口を開いたのは、食堂の女将だった。


「ちょっと」


 低い声だった。


「店の中で刃物を抜くなら、せめて食事代を払ってからにしてちょうだい」


 黒いコートの女が、わずかに眉を動かした。


「……食事代?」


「そう」


「今、この状況で?」


「この状況だからよ」


 女将は腕を組んだ。


「床を傷つけたら修理代も取るからね」


 林夏が小さく頷いた。


「この店、そういうところだから」


「あなたは黙って」


「はい」


 林夏は素直に口を閉じた。


 女は刃を構え直した。


「月白」


「……」


「命運修正機構から、あなたの処理命令が出ている」


「分かってる」


「なら、抵抗しないで」


「嫌」


 月白の返事は短かった。


 女の目が細くなる。


「以前のあなたなら、もっと素直だった」


「以前とは違う」


「何が変わった?」


 月白は答えなかった。


 その代わり、林夏を見た。


 女も、その視線を追う。


「……この男?」


 林夏は自分を指差した。


「俺?」


「そう」


「何もしてないけど」


「あなたがいるから、命軌が乱れている」


「それ、俺の責任?」


「そうは言っていない」


「じゃあ、よかった」


「……」


 女のこめかみに、また青筋が浮いた。


「あなた、さっきから何なの?」


「修理屋」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、何?」


「なぜ怖がらないの?」


 林夏は少し考えた。


「怖いよ」


「……」


「でも、怖いからって、何でも言うことを聞くわけじゃないだろ」


 女は黙った。


 林夏は箸を置いた。


「それに」


「何?」


「君も、そんなに殺したそうな顔してないし」


 女の表情が変わった。


 月白も驚いたように林夏を見る。


「どうして分かるの?」


 林夏は肩をすくめた。


「分からない」


「……」


「ただの勘」


 女はしばらく林夏を見つめた。


 そして、刃を少し下げた。


「名前は?」


「林夏」


「私は紅葉」


「紅葉?」


「そう」


「季節みたいな名前だな」


「……よく言われる」


「じゃあ、紅葉さん」


「何?」


「飯、食べる?」


 月白が頭を抱えた。


「あなた、本当にどうしてそうなるの……」


 紅葉は無言だった。


 やがて。


「……いらない」


「そう?」


 林夏は残念そうに料理を見る。


「うまいのに」


「興味ない」


「もったいない」


「あなたは緊張感というものを知らないの?」


「知ってるよ」


「なら――」


「知ってるけど、飯は飯だから」


 紅葉は何も言えなくなった。


 女将がため息をついた。


「あなたたち、全員ちょっと変ね」


 林夏は頷いた。


「よく言われます」


 月白は小さく笑った。


 紅葉だけが笑わなかった。


 けれど、その目から殺気は少しだけ消えていた。


 そのとき。


 店の外から、機械音が響いた。


 ――ピッ。


 紅葉の表情が変わった。


「……もう来た」


「誰が?」


「修正執行体」


 月白が立ち上がる。


「ここも見つかった?」


「違う」


 紅葉は窓の外を見る。


「私を追ってきた」


「あなたを?」


 林夏が聞いた。


「そう」


「なんで?」


「あなたたちと接触したから」


 林夏は少し黙った。


「じゃあ……」


 窓の外。


 雨の中に、白い影がいくつも立っている。


 赤い光が、ゆっくりとこちらを向いた。


 紅葉は刃を握り直した。


「私は命運修正機構に従っている」


「うん」


「でも、私まで修正対象になった」


「……」


「だから、今だけはあなたたちと同じだ」


 月白が静かに言った。


「逃げるの?」


「違う」


 紅葉は立ち上がった。


「戦う」


 林夏は彼女を見る。


「一人で?」


「そう」


「無理じゃない?」


「やってみなければ分からない」


「それ、俺の台詞」


「知らない」


 林夏は少し笑った。


 そして、店の奥を見る。


「女将さん」


「何?」


「裏口、借りていい?」


「壊さないなら」


「善処する」


「その返事は信用できないわね」


 林夏は月白を見る。


「走れる?」


「うん」


 紅葉を見る。


「君は?」


「戦える」


「じゃあ、俺たちが逃げる時間を作って」


 紅葉は少し驚いた。


「私に命令するの?」


「お願い」


「……」


「嫌ならいい」


 紅葉はしばらく林夏を見た。


 そして、刃を肩に担いだ。


「分かった」


「ありがとう」


「勘違いしないで」


「何を?」


「あなたを助けるわけじゃない」


「分かってる」


「月白も」


「うん」


「私自身のために戦うだけ」


 林夏は笑った。


「それで十分だよ」


 三人は裏口へ向かった。


 その直前。


 林夏が振り返った。


「そうだ」


「何?」


 紅葉が聞く。


「飯、本当にいらない?」


「……」


「あとで後悔するよ」


「しない」


「そう?」


 林夏は笑った。


「じゃあ、覚えておく」


 紅葉は何も答えなかった。


 ただ。


 ほんの一瞬だけ。


 彼女の視線が、テーブルの上の料理へ向いた。


 そして三人が裏口から出た直後。


 食堂の扉が破られた。


 白い修正執行体が、一斉に店内へ入ってくる。


 紅葉は振り返った。


 刃を抜く。


「来るよ」


 林夏は月白の隣に立った。


「うん」


「怖くないの?」


 紅葉が聞いた。


 林夏は少し考えた。


「怖い」


 そして笑う。


「だから、三人で逃げよう」


 紅葉は一瞬だけ目を見開いた。


「……戦うんじゃないの?」


「戦うのは君だろ?」


「……」


「俺、修理屋だから」


 紅葉は初めて、ほんの少しだけ笑った。


「本当に変な男」


 雨の中。


 三人の影が、第七街区の路地へ消えていった。

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