第75章 約束の続き
翌朝。
林夏は。
いつもより早く起きた。
目覚ましが鳴る前だった。
「……早すぎた」
時計を見る。
まだ外は薄暗い。
もう一度寝ようとした。
けれど。
昨日のことを思い出した。
――明日、もう一回行こう。
――約束。
林夏は。
布団から起き上がった。
「寝てる場合じゃないな」
⸻
万事修理店。
開店前。
林夏は店の掃除をしていた。
普段なら。
適当に済ませるところまで。
今日は。
妙に丁寧だった。
紅葉が入ってくる。
「何してるの?」
「掃除」
「見れば分かる」
「今日はちゃんとやってる」
紅葉は。
店内を見回す。
「……昨日のこと、気にしてる?」
「少し」
「ふうん」
紅葉は。
カウンターに荷物を置いた。
「別に、そこまで気にしなくてもいいんじゃない?」
「でも」
林夏は。
箒を止める。
「月白、楽しみにしてたみたいだから」
紅葉は。
少し黙った。
「……そう」
「だから今日は遅れない」
「それはいいこと」
紅葉は。
少しだけ笑った。
「頑張って」
「おう」
⸻
午前。
林夏は。
時計を何度も見る。
月白は。
まだ来ていない。
九時。
九時十分。
九時二十分。
「……早く来すぎたかな」
紅葉が言う。
「まだ約束の時間じゃない」
「分かってる」
「なら落ち着いて」
「落ち着いてる」
「全然落ち着いてない」
「……」
林夏は。
黙った。
⸻
九時半。
店の扉が開く。
「おはよう」
月白だった。
林夏が。
すぐに振り返る。
「おはよう」
月白は。
少し驚いた。
「もう準備してるの?」
「うん」
「早いね」
「今日は遅れないって決めたから」
月白は。
小さく笑った。
「ありがとう」
その一言だけで。
林夏は。
少し安心した。
⸻
「じゃあ行こう」
「うん」
二人が店を出る。
紅葉は。
カウンターから二人を見送った。
「いってらっしゃい」
林夏が振り返る。
「紅葉は?」
「今日は店にいる」
「一緒に来る?」
紅葉は。
少しだけ考えた。
「……いい」
月白を見る。
月白も。
何も言わない。
紅葉は。
手を振った。
「楽しんできて」
「うん」
二人は。
並んで歩いていった。
⸻
本屋。
大きな店ではない。
古い建物の二階にある。
階段を上がる。
月白が。
昨日買った本を林夏に見せる。
「これ」
「うん」
「この作家、他にもあるよ」
「じゃあ探そう」
二人で棚を見る。
林夏は。
すぐに飽きる。
月白は。
真剣に探している。
「林夏」
「ん?」
「これ」
「面白そう?」
「うん」
「じゃあ買おう」
「……そんな簡単に決めていいの?」
「月白が面白そうって言ったから」
月白は。
少し黙った。
「それだけ?」
「それだけ」
「……そっか」
本を抱える。
その顔は。
少し嬉しそうだった。
⸻
本屋を出たあと。
二人は近くの喫茶店に入った。
窓際の席。
月白は。
紅茶を飲む。
林夏は。
ケーキを食べる。
「昨日」
月白が言う。
「うん?」
「待ってる間」
「うん」
「少しだけ、嫌なことを考えた」
林夏の手が止まる。
「どんな?」
「林夏が」
月白は。
少し考える。
「私との約束を、忘れたのかなって」
林夏は。
申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん」
「でも」
月白は。
首を振る。
「今日来てくれたから」
「うん」
「もう大丈夫」
林夏は。
少し笑った。
「じゃあ、これからは忘れないようにする」
「無理しなくていいよ」
「でも」
「うん?」
「約束したことは覚えておきたい」
月白は。
林夏を見る。
「どうして?」
林夏は。
少し考えた。
「約束って」
そして。
いつものように笑った。
「二人で決めたことだから」
月白は。
その言葉を。
しばらく聞いていた。
「……うん」
⸻
喫茶店を出る。
帰り道。
月白が。
ふと立ち止まった。
「林夏」
「ん?」
「今日」
「うん」
「来てくれてありがとう」
「俺が誘ったんだから、当たり前だろ」
「それでも」
月白は。
笑った。
「嬉しかった」
林夏も。
笑った。
「じゃあ、また行こう」
「うん」
「今度はどこ?」
「……まだ決めない」
「昨日と同じだな」
「うん」
二人は。
また歩き始めた。
⸻
夕方。
店に戻る。
紅葉が。
二人を見る。
「おかえり」
「ただいま」
月白は。
新しく買った本をカウンターに置いた。
紅葉が見る。
「また買ったの?」
「うん」
「何冊目?」
「二冊目」
紅葉は。
林夏を見る。
「林夏が選んだ?」
「月白が選んだ」
「へえ」
紅葉は。
本を手に取った。
「面白そう」
「読む?」
「あとで」
月白が。
少し笑う。
「じゃあ、読み終わったら貸して」
紅葉は。
一瞬。
月白を見る。
「……いいよ」
林夏が。
横から言う。
「俺にも貸して」
紅葉は。
すぐに本を閉じた。
「嫌」
「なんで?」
「もう読んだんでしょ」
「まだ」
「じゃあ月白から借りれば」
「それだと同じ本だろ」
「そういうこと」
林夏は。
納得していない顔をした。
月白は。
二人を見て笑った。
⸻
夜。
月白が帰る前。
林夏が言った。
「明日」
「うん?」
「何か食べたいものある?」
月白は。
少し考える。
「……甘いもの」
「じゃあ探そう」
「二人で?」
「うん」
月白は。
笑った。
「約束」
「約束」
今度は。
二人とも。
忘れなかった。
店の時計が。
静かに時を刻む。
端末は。
何も表示しなかった。
ただ。
二人の間に。
新しい約束だけが残っていた。




