第68章 恋人に見えた日
昼前。
万事修理店の時計が。
十二時を指した。
林夏は立ち上がった。
「飯」
紅葉が本から顔を上げる。
「また?」
「昼だからな」
「それ、理由になってない」
「昼に飯を食うのは、かなり立派な理由だぞ」
澪は端末から目を離さない。
「今日は何を食べる?」
「ラーメン」
「昨日も食べた」
「昨日と今日では日付が違う」
「そういう問題?」
月白が笑った。
「じゃあ、私も行く」
林夏が振り返る。
「お」
紅葉がすぐに言った。
「私も行く」
「なんで?」
「なんで私だけ聞くんだ」
「いや、別に」
澪は立ち上がらなかった。
「私は残る」
「ユウは?」
「学校」
「じゃあ」
林夏は月白を見る。
「二人で行くか」
「うん」
紅葉は少しだけ眉を動かした。
「……二人?」
「何?」
「別に」
そう言って。
紅葉は本を開き直した。
けれど。
ページはしばらく変わらなかった。
⸻
店を出る。
空は晴れていた。
雨の多い第七街区では。
珍しい天気だった。
月白が隣を歩いている。
林夏は特に何も考えていない。
「今日はどこ?」
「いつもの店」
「またラーメン?」
「ラーメン屋だからな」
「他のものもあるでしょう」
「ある」
「食べないの?」
「食べない」
月白は笑った。
「本当に好きなんだね」
「うん」
「ラーメンと私なら?」
林夏が止まった。
月白も止まる。
「……」
「どうしたの?」
「それ」
「何?」
「難しい質問だな」
月白が笑う。
「本気で考えるんだ」
「大事な問題だから」
「じゃあ、ゆっくり考えて」
林夏は真剣な顔をした。
「ラーメンは毎日食べられる」
「うん」
「月白は毎日食べられない」
「……」
「だから比較できない」
月白は。
一瞬ぽかんとして。
それから笑い出した。
「それ、答えになってない」
「でも事実だろ」
「そうだけど」
二人は歩き出した。
しばらくして。
月白が小さく言った。
「……私は?」
「ん?」
「毎日でも、一緒にいていいよ」
林夏は少し考えた。
「それは助かる」
「何が?」
「店に一人だと暇だから」
「……」
月白は少しだけ頬を膨らませた。
「そういうところ」
「何?」
「なんでもない」
⸻
ラーメン屋に入る。
店員が二人を見る。
「いらっしゃいませ」
「二名様ですね」
「はい」
店員は席を案内する。
そして。
何気なく聞いた。
「お二人、恋人同士ですか?」
月白の足が止まった。
林夏も止まる。
「……」
店員は笑顔のままだ。
「あ、すみません。失礼でしたね」
月白が先に答えた。
「いえ」
少し間を置いて。
「そう見えますか?」
店員は困ったように笑った。
「雰囲気が似ていたので」
林夏は月白を見る。
月白も林夏を見る。
「どうする?」
「何を?」
「否定する?」
「……」
月白は答えなかった。
林夏も。
否定しなかった。
店員は二人を見て。
「では、こちらへどうぞ」
二人は席に座った。
向かい合わせ。
月白は水を一口飲んだ。
「……」
林夏も水を飲む。
「……」
しばらく。
二人とも何も言わない。
やがて。
月白が小さく笑った。
「否定しなかったね」
「月白も」
「林夏が言うと思った」
「俺?」
「うん」
「なんで?」
「いつも、そういうの気にしないから」
「まあな」
林夏はメニューを開いた。
「それに」
「うん?」
「別に悪いことじゃないだろ」
月白の指が。
少しだけ止まった。
「……そうだね」
⸻
ラーメンを食べ終わる。
店を出る。
月白はしばらく黙っていた。
林夏が聞く。
「どうした?」
「何でもない」
「さっきからそれ多いな」
「じゃあ」
月白は立ち止まった。
「もし」
「うん」
「本当に恋人だったら」
林夏も止まる。
「どうする?」
「どうするって?」
「今みたいに、一緒にご飯を食べたり」
「するだろ」
「買い物したり」
「する」
「一緒に帰ったり」
「する」
「喧嘩したり」
「たぶんする」
「それだけ?」
林夏は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「恋人だからって、急に別の人間になるわけじゃないだろ」
月白は黙った。
林夏は続ける。
「今と同じように」
「……」
「一緒に飯食って」
「うん」
「喧嘩して」
「うん」
「たまに笑って」
「うん」
「嫌になったら、ちゃんと話す」
月白は。
少しだけ目を伏せた。
「それが恋人?」
「知らない」
「知らないの?」
「俺、恋愛詳しくないから」
月白は笑った。
「そこは自信持って言うんだ」
「知らないことは知らない」
「……そっか」
二人は再び歩き始める。
しばらくして。
月白が。
林夏の袖をつまんだ。
ほんの少しだけ。
林夏は気づいた。
でも。
何も言わなかった。
そのまま歩いた。
⸻
万事修理店。
紅葉が一人で本を読んでいた。
澪は端末を見ている。
二人が帰ってくる。
紅葉が顔を上げる。
「遅かった」
「飯食ってただけだぞ」
「二人で?」
「うん」
紅葉は。
一瞬だけ月白を見る。
それから林夏を見る。
「……ふーん」
「何?」
「別に」
澪が端末を見せる。
「さっき、新しい記録が出た」
林夏が近づく。
画面には。
【林夏――月白】
【他者認識:恋人】
林夏が笑った。
「まだ記録してるのか」
「でも」
澪が続ける。
「今回は少し違う」
【本人による否定:なし】
【本人による肯定:なし】
【関係:未確定】
林夏は。
その画面を見て。
「じゃあ、未確定でいいだろ」
月白も。
画面を見る。
そして。
「うん」
紅葉は本を閉じた。
「……未確定、ね」
「何?」
「何でもない」
紅葉は窓の外を見る。
少しだけ。
不機嫌そうだった。
その日の夕方。
林夏が店の前を掃除していると。
月白が隣に立った。
「ねえ」
「ん?」
「今日のこと」
「ラーメン?」
「違う」
「恋人って言われたこと」
「ああ」
月白は少し迷って。
「嫌じゃなかった」
林夏は。
ほうきを止めた。
月白は続ける。
「それだけ」
「うん」
「……林夏は?」
林夏は少し考える。
「俺も」
月白が顔を上げる。
「嫌じゃなかった」
それ以上は。
何も言わなかった。
二人は並んで。
店の前を掃除する。
端末は。
何も記録しなかった。
【関係:未確定】
それだけだった。
でも。
その日の二人には。
その「未確定」が。
少しだけ。
前より近く感じられた。




