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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第65章 空白の代わりに

翌朝。


万事修理店の前に、一台の自転車が置かれていた。


古い自転車だった。


前輪は少し歪み、後輪の泥よけも外れかけている。


林夏は店の扉を開けるなり、それを見た。


「……また修理か」


誰もいない。


ただ、ハンドルに小さな紙が結ばれていた。


【直してほしい】


林夏は紙を外した。


「名前は?」


返事はない。


「住所は?」


ない。


「電話番号は?」


ない。


林夏は首を傾げた。


「ずいぶん信用されてるな、俺」


月白が店の奥から出てくる。


「置いていったの?」


「みたいだな」


「誰が?」


「それが分からない」


澪が自転車を見る。


「記録もない」


「記録がない?」


「昨日までなら、こういうものにも何らかの情報が出ていた」


澪は端末を確認する。


画面には。


【対象:自転車】


【所有者:不明】


【目的:不明】


【修理理由:不明】


そして。


【未発生事象:所有者が店に来る】


【発生可能性:低】


林夏は眉をひそめた。


「来ないのか?」


「分からない」


「じゃあ、待つ?」


紅葉が言った。


「勝手に置かれた物を?」


「修理屋だからな」


林夏は自転車を店の中へ入れた。


「直すだけ直そう」


月白が少し笑う。


「持ち主が分からなくても?」


「自転車は壊れてる」


「だから?」


「直せるなら直す」


澪が聞いた。


「持ち主が来なかったら?」


林夏は工具箱を開けた。


「その時考える」


いつもの答えだった。


昼になる。


自転車はまだ店の奥にある。


林夏は前輪を外した。


「これは簡単」


スポークを調整する。


泥よけを固定する。


チェーンに油を差す。


作業は順調だった。


しかし。


端末が突然光った。


【未発生事象】


【所有者の来店】


【消失】


澪が画面を見る。


「消えた」


紅葉が近づく。


「来店しないってこと?」


「違う」


澪は首を振る。


「来店するという可能性そのものが、記録から消えた」


「どういうこと?」


「分からない」


その直後。


別の表示が出る。


【空白】


【代替候補を検索】


林夏の手が止まった。


「代替?」


端末に。


いくつかの候補が並ぶ。


【候補A:別の人物が来店】


【候補B:所有者から連絡】


【候補C:第三者が自転車を引き取る】


【候補D:修理品として処分】


紅葉が顔をしかめた。


「何それ」


「空白を埋めようとしている」


澪が答える。


「でも」


月白が言う。


「空白って、埋める必要があるの?」


誰も答えない。


その時。


店の扉が開いた。


「すみません」


若い女性が入ってきた。


全員が振り向く。


女性は店の奥の自転車を見た。


「あ……」


林夏が聞く。


「この自転車?」


女性は首を振った。


「違います」


そして。


少し困ったように笑った。


「昨日、駅の前で見かけたので。誰か困っているのかなと思って」


紅葉が端末を見る。


【代替候補A】


【発生】


澪が立ち上がった。


「……来た」


「何が?」


「システムが予測した代替候補」


女性は何も知らない。


ただ。


店に入ってきただけだった。


林夏は端末を見た。


それから女性を見る。


「自転車の持ち主を探してる?」


「はい」


「この店に置いてあったんです」


「そうなんですね」


女性は少し考える。


「じゃあ、持ち主が来るまで預かってもらえますか?」


林夏は頷いた。


「いいですよ」


女性は礼を言って出ていった。


扉が閉まる。


端末には。


【代替候補A】


【役割:情報伝達】


【発生】


その下に。


【空白:縮小】


林夏は。


少し嫌な顔をした。


「……今の人」


澪を見る。


「この自転車を持ち主に返すために来たわけじゃない」


「うん」


「たまたま入ってきただけだ」


「うん」


「なのにシステムは、それを『代わり』にした」


澪は画面を見つめた。


「それが問題」


紅葉が言う。


「本来起こるはずだったことが起きなかったから、別の出来事を同じ場所に入れた」


月白が静かに言った。


「でも」


「何?」


「その二つは、同じじゃない」


澪が頷く。


「そう」


端末がまた光った。


【代替事象】


【成立】


林夏は画面を閉じた。


「成立してない」


「記録上は成立してる」


「記録が間違ってる」


澪は少し黙った。


そして。


「たぶん」


「たぶん?」


「今まで私たちは、記録が現実を追いかけていると思っていた」


澪は端末を置く。


「でも今は違う」


「何が?」


「記録が空白を見つけて」


「……」


「その空白に入りそうな現実を探している」


店の中が静かになった。


林夏は修理途中の自転車を見る。


「それって」


「うん」


「現実を記録してるんじゃなくて」


澪は答えた。


「現実のほうを、記録に合わせようとしている」


紅葉が舌打ちする。


「昔より面倒になってない?」


「かなり」


ユウが店に入ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


ユウは店内を見回す。


「何してるの?」


林夏が答える。


「自転車を直してる」


「誰の?」


「分からない」


「え?」


ユウが自転車を見る。


「じゃあ、持ち主が来なかったら?」


林夏は少し考えた。


「その時は」


工具を置く。


「持ち主が来なかったっていう結果になる」


ユウは頷く。


「それだけ?」


「それだけ」


澪が微笑む。


「それでいいと思う」


端末が。


一度だけ点滅した。


【空白】


【代替不要】


その表示が出た直後。


画面から。


【代替候補】


という項目が消えた。


林夏は少し笑った。


「お」


紅葉が見る。


「何?」


「一個、減った」


「何が?」


「面倒な仕事」


「そこ?」


「大事だろ」


月白が笑う。


「大事かもしれない」


夕方。


自転車は完成した。


それでも。


持ち主は来なかった。


林夏は自転車を店の隅に置いた。


札を一枚つける。


【預かり中】


それだけ。


所有者も。


理由も。


返却日も。


書かなかった。


夜。


店を閉める前。


月白が自転車を見る。


「明日も来なかったら?」


林夏は鍵を閉めながら答えた。


「明日考える」


「いつもそれね」


「便利だからな」


月白は少し笑った。


二人が店を出る。


その後。


誰もいなくなった店内で。


自転車の横にある端末が。


一度だけ光った。


【未発生事象】


【所有者の来店】


【未確定】


【代替事象】


【不要】


そして。


最後に。


一行。


【空白は、欠陥ではない】


画面が消える。


店の外では。


林夏たちが。


明日のことを話しながら歩いていた。


その内容は。


明日の昼に何を食べるか。


それだけだった。

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