第62章 言わなかったこと
翌朝。
万事修理店の扉を開けると。
昨日の男が立っていた。
林夏は少し驚いた。
「昨日の人?」
男は頷いた。
「覚えていましたか」
「店の前でずっと立ってたからな」
「……そうですか」
男は店の中に入った。
しかし。
カウンターの前に座っても。
何も言わない。
林夏は急かさなかった。
「コーヒー飲む?」
「え?」
「無料じゃないけど」
男は少し笑った。
「お願いします」
林夏は紙コップにコーヒーを入れた。
男の前に置く。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
紅葉が奥から見ている。
「……何しに来たの?」
男は少し困った顔をした。
「分かりません」
「昨日も?」
「昨日も」
「じゃあ今日は?」
「……たぶん」
男はコーヒーを一口飲んだ。
「話したかったんだと思います」
林夏は頷いた。
「何について?」
男は。
しばらく黙っていた。
やがて。
「父のことです」
林夏は黙って聞く。
「昨日、写真を見ていたら」
男は言った。
「昔のことを思い出しました」
「はい」
「父と喧嘩した日のことです」
男は笑った。
「くだらない喧嘩でした」
「何で?」
「仕事を辞めると言ったら、反対されたんです」
「それで?」
「俺は家を出ました」
少し間を置く。
「そのあと、一度も謝りませんでした」
林夏は何も言わない。
「父が亡くなるまで」
男はコーヒーを見つめた。
「謝れなかった」
店の中が静かになる。
「だから」
男は顔を上げた。
「昨日の写真を見て」
「はい」
「父と母が並んでいるところを見たら」
少し笑った。
「なんだか、父にもう一度会いたくなったんです」
林夏は。
「会えた?」
男は首を振った。
「会えません」
「そうか」
「だから」
男はポケットから小さな紙を取り出した。
「これを書きました」
紙には。
短い文章が書いてある。
【あの時は、ごめん】
男は紙を見つめた。
「馬鹿みたいですよね」
「別に」
「死んだ人には届かないのに」
林夏は少し考えた。
「届くかどうかは、俺には分からない」
男は顔を上げる。
「でも」
林夏は言った。
「書いたことで、自分が何を言いたかったのかは分かったんじゃないですか?」
男は。
しばらく黙っていた。
そして。
「……はい」
紙を折る。
「これで十分かもしれません」
男は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「今度はコーヒー代もらうぞ」
男は笑った。
「はい」
扉が閉まる。
月白が小さく言った。
「言わなかったことって」
「うん」
「言わないままでも、なくならないんだね」
澪が端末を見る。
「情報として残る場合はある」
紅葉が言う。
「でも、言わない理由まで分かるわけじゃない」
「そう」
澪は頷いた。
「だから、記録だけでは人間を説明できない」
林夏はカウンターを拭いた。
「説明しなくてもいいんじゃないか?」
澪が顔を上げる。
「どうして?」
「本人が話したくなったら話せばいい」
林夏は笑った。
「話したくないなら、話さなくてもいい」
その日の午後。
月白は一人で外へ出た。
行き先は。
駅前の小さな郵便局。
封筒を一つ持っている。
宛先は。
白澤。
月白は。
しばらく入口の前に立っていた。
封筒を見る。
そして。
中身を確認する。
一枚の紙。
そこには。
短い文章だけが書かれていた。
【手紙、受け取りました】
【今は会わない】
【でも、読んだことは伝えておきたかった】
月白は。
しばらく考えた。
それから。
封筒を投函した。
郵便受けの中に。
小さな音がする。
それだけだった。
月白は振り返る。
誰もいない。
「……これでいい」
そう呟いて。
歩き出した。
その頃。
白澤の端末に。
一件の通知が届いた。
【郵便物】
白澤は封筒を開けた。
紙を読む。
何度も。
読み返す。
そして。
以前なら。
すぐに返事を書いただろう。
しかし。
今日は。
紙を机の上に置いただけだった。
「……ありがとう」
それだけ。
返事は書かない。
会いに行かない。
追いかけない。
でも。
無視もしない。
白澤は。
その中間にある時間を。
初めて受け入れようとしていた。
その夜。
万事修理店。
月白が帰ってくる。
林夏は何も聞かなかった。
月白も。
何も言わなかった。
二人で。
夕食を食べる。
ラーメンだった。
「今日、何味?」
月白が聞く。
「醤油」
「昨日も」
「昨日は味噌」
「そうだっけ?」
「俺は覚えてる」
「じゃあ、明日は?」
林夏は箸を止めた。
「明日のことは」
月白が笑う。
「明日考える?」
「正解」
そのとき。
澪の端末が。
小さく震えた。
【情報伝達:成立】
【返信:なし】
【接触:なし】
【関係変化:未確定】
さらに。
新しい記録。
【言葉を伝えることと、答えを求めることは同じではない】
澪は。
その文章をしばらく見ていた。
そして。
端末を閉じた。
誰も。
その記録について話さなかった。
その夜。
月白は部屋で。
もう一度。
白澤からの手紙を読んだ。
そして。
自分が送った手紙を思い出す。
返事が来るかどうか。
考えなかった。
来ても。
来なくても。
今は。
それでよかった。
窓の外では。
雨が降り始めていた。
月白は。
カーテンを閉める。
そして。
ベッドに入った。
明日。
何が起きるか。
まだ。
誰にも分からなかった。




