第55章 待つことの意味
白澤は一人で歩いていた。
雨は降っていない。
空は薄暗い。
街の人々は、いつもと同じように歩いている。
彼の手には。
一枚の紙があった。
月白からの返事。
【今は、まだ答えを決めたくない】
白澤は何度も読み返していた。
以前なら。
この言葉を見た瞬間。
どうすれば彼女が安心できるかを考えただろう。
どうすれば彼女が戻ってくるか。
どうすれば危険から遠ざけられるか。
どうすれば。
彼女の未来を守れるか。
けれど。
今は違った。
白澤は紙を折る。
そして。
ポケットにしまった。
「……そうか」
それだけだった。
近くの公園のベンチに座る。
しばらく。
何もしなかった。
端末を取り出す。
【月白】
【現在:未定義】
【次回行動:不明】
【接触可能性:算出中】
白澤は画面を見た。
以前なら。
すぐに計算を続けていた。
彼女がどこにいるのか。
誰といるのか。
いつ会えるのか。
どうすれば。
彼女を守れるのか。
しかし。
指が止まった。
画面を閉じる。
「……やめよう」
それだけ言った。
そのとき。
隣のベンチに老人が座った。
老人は白澤を見る。
「待ち合わせかね?」
白澤は少し考えた。
「……分かりません」
「来るかどうか分からないのか」
「はい」
老人は笑った。
「それなら、待ち合わせとは言わんかもしれんな」
白澤も少し笑った。
「そうですね」
「じゃあ、何をしている?」
白澤は答えられなかった。
老人はそれ以上聞かなかった。
しばらく二人で。
何も言わずに座っていた。
やがて老人が立ち上がる。
「私は帰る」
「はい」
「君は?」
白澤は公園を見渡した。
「……もう少しいます」
「そうか」
老人は歩いていった。
白澤は一人になった。
そのとき。
端末が震えた。
【推奨行動:接触】
【推奨理由:関係修復可能性】
白澤は画面を見る。
そして。
削除した。
再び表示される。
【推奨行動:接触】
白澤はまた削除した。
三度目。
同じ表示。
白澤は端末の電源を切った。
「……これでいい」
それが。
初めてのことだった。
「僕が決める」
誰かを動かすためではない。
誰かを守るためでもない。
ただ。
自分自身について。
自分で決める。
その日の夕方。
万事修理店。
月白は店の窓を拭いていた。
林夏は奥で時計を修理している。
紅葉は資料を読んでいる。
ユウは椅子に座って宿題をしていた。
澪は端末を見ていた。
「……白澤」
月白の手が止まる。
「何?」
「今日は接触していない」
「そう」
澪は画面を見せた。
【接触予測:成立せず】
【接触誘導:停止】
【白澤:独自行動】
月白はしばらく画面を見る。
「そうなんだ」
紅葉が聞く。
「どう思う?」
月白は少し考えた。
「……よかったと思う」
「よかった?」
「うん」
月白は窓を拭きながら答える。
「私が何かを決めるまで、待ってくれているから」
林夏が奥から言った。
「待つのも結構大変だけどな」
月白は笑った。
「そうだね」
「待つだけって、何もしないように見えるし」
「うん」
「でも」
林夏は時計を見ながら言う。
「何もしないって決めるのも、選択だろ」
月白は少し考えた。
「……そうだね」
その夜。
白澤は自分の部屋に戻った。
机の上に。
古い記録が並んでいる。
【月白:保護対象】
【命軌:固定推奨】
【関係:安定化】
白澤は。
一枚ずつ。
裏返した。
最後の一枚だけ。
手元に残す。
そこには。
昔の二人の記録。
【月白――白澤】
【過去:成立】
白澤はその文字を見つめる。
そして。
その下に。
自分で書いた。
【現在:未定義】
さらに。
その下。
【未来:未確定】
ペンが止まる。
少し迷ってから。
最後の一行を書いた。
【本人の選択を待つ】
白澤はペンを置いた。
それ以上。
何も書かなかった。
その頃。
万事修理店では。
月白が眠る前に。
ポケットから手紙を取り出していた。
何度も読み返した。
そして。
紙の裏に。
新しい言葉を書いた。
【待ってくれて、ありがとう】
封筒には入れない。
送ることもしない。
ただ。
自分で書いた。
それだけだった。
翌朝。
街の記録が更新された。
【月白:現在選択】
【白澤:待機選択】
【接触:未定】
【強制:なし】
【未来:未確定】
そして。
最後に。
これまでとは少し違う記録が残った。
【待つことは、相手の人生を止めることではない】
その下。
【自分の人生を止めないこと】
誰も。
その意味をすぐには理解しなかった。
それでも。
その日から。
白澤は月白を追わなくなった。
月白も。
白澤から逃げるためだけに歩かなくなった。
二人は。
それぞれの場所で。
それぞれの時間を生き始めた。
そして。
いつか。
本当に会いたいと思ったとき。
そのときは。
どちらかが。
自分の足で歩けばいい。
それだけだった。




