第53章 分かったつもりにならない
夜が深くなっていた。
万事修理店の中央に。
五つの椅子が並んでいる。
机の上には。
まだ片づけられていない資料。
冷めたお茶。
そして。
林夏が買ってきた菓子が一袋。
誰も手をつけていない。
「じゃあ」
林夏が言った。
「何から話す?」
紅葉が腕を組む。
「お前が言い出したんだろ」
「そうだけど」
「なら、お前から話せ」
「何を?」
「自分が何者なのか」
林夏は少し考えた。
「修理屋」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、分からない」
紅葉が額を押さえた。
「……最初からそれか」
月白が笑う。
「林夏らしいね」
「でも」
林夏は少し真面目な顔になった。
「俺、自分のことを説明するのは苦手なんだよ」
「どうして?」
澪が聞いた。
「説明しているうちに、それが自分だと思い込むから」
三人が黙った。
林夏は続けた。
「昔は、自分はこういう人間だって決めたこともあった」
「今は?」
「今は、明日変わるかもしれないと思ってる」
ユウが聞く。
「じゃあ、林夏さんは自分のことを分かってないんですか?」
「分かってるところもある」
「例えば?」
「腹が減る」
紅葉が言った。
「それは誰でも分かる」
「あと」
林夏は月白を見る。
「誰かと一緒にいるのは、嫌いじゃない」
月白は少し驚いた。
林夏はそれ以上説明しなかった。
紅葉がため息をつく。
「それだけか」
「今はそれだけ」
澪が頷いた。
「十分だと思う」
「本当に?」
「うん」
澪は自分の端末を置いた。
「次は私」
誰も口を挟まない。
「私は、人を見ることが好き」
「観察?」
「少し違う」
澪は考える。
「人がどうしてそうしたのかを知りたい」
「それなら、結構人に興味あるんだな」
林夏が言う。
「でも」
澪は五人を見た。
「私は、人を理解したと思った瞬間が一番危ないと思ってる」
ユウが聞く。
「どうして?」
「その人が次に何をするかを、もう分かったと思ってしまうから」
月白が小さく頷いた。
「それは……分かる」
澪は続けた。
「だから私は、分からない部分を残したい」
林夏が笑う。
「じゃあ、俺たちと相性いいな」
「たぶん」
紅葉が言った。
「お前たちは全員、分からないって言ってるだけじゃないか」
「それも一つの共通点だな」
林夏が笑った。
紅葉は少し黙ってから。
「私も話す」
そう言った。
「私は、昔から命令されることに慣れていた」
誰も遮らない。
「何をするか。
誰を追うか。
誰を敵とするか。
全部、決められていた」
月白が静かに聞いている。
「その方が楽だった」
紅葉は言った。
「自分で決めなくていいから」
林夏が聞く。
「今は?」
紅葉は少し考えた。
「今は」
窓の外を見る。
「自分で決める方が面倒だ」
林夏が笑った。
「分かる」
「でも」
紅葉は続けた。
「面倒だからって、戻りたいとは思わない」
その言葉を聞いて。
月白が頷いた。
「それも、選択なんだね」
紅葉は笑った。
「たぶん」
ユウが手を挙げた。
「じゃあ、僕も」
「学校で何かあった?」
林夏が聞く。
「違います」
ユウは少し笑う。
「僕は、普通だと思ってました」
「今も?」
「分からなくなりました」
ユウは自分の手を見る。
「命軌も普通。
特別な力もない。
たぶん、昔ならそれを安心だと思ってた」
「でも?」
「今は」
少し考える。
「普通かどうかも、自分で決めるものじゃないんだなって」
月白が笑う。
「そうかもしれない」
最後に。
月白が話す番になった。
彼女はしばらく黙っていた。
そして。
「私は」
ゆっくりと言った。
「誰かに大切にされることが、ずっと怖かった」
林夏が顔を上げる。
月白は続ける。
「大切にされればされるほど、その人の期待を裏切れなくなるから」
紅葉が何も言わずに聞いている。
「白澤が悪かった、という話じゃない」
月白は言った。
「彼は、本当に私を大切にしていたと思う」
「でも」
月白は窓の外を見る。
「大切にされることと、自分の人生を決めてもらうことは違う」
静かな時間が流れた。
林夏は。
何も言わなかった。
ただ。
机の上の菓子袋を月白の前に置いた。
「食べる?」
月白は少し笑った。
「うん」
袋を開ける。
一つ取る。
紅葉が呟いた。
「……結局、そこに戻るのか」
「何が?」
「食べ物」
「大事だろ」
ユウが笑う。
澪も。
紅葉も。
月白も。
少しだけ笑った。
しばらくして。
澪の端末が光った。
【相互理解:開始】
【理解度:測定不能】
【原因:対象者が互いを定義していない】
紅葉が画面を見る。
「測定できないのか」
澪は頷いた。
「できない」
林夏が言った。
「なら、いいじゃん」
「何が?」
「分かったつもりにならなくて済む」
澪は画面を見た。
そして。
端末を閉じた。
「……そうだね」
その瞬間。
表示が変わった。
【相互理解:継続】
【完全理解:不要】
【予測:限定】
【関係:変化可能】
五人はその文字を見た。
誰も喜ばなかった。
誰も驚かなかった。
ただ。
それでいいと思った。
人間は。
全部を分かる必要はない。
分からないからこそ。
もう一度聞くことができる。
もう一度見ることができる。
そして。
昨日とは違う相手として。
今日、また隣に座ることができる。
林夏は菓子を一つ取った。
「じゃあ、今日はもう終わりにしよう」
紅葉が聞く。
「何を?」
「相互理解」
「早すぎるだろ」
「続きは明日」
月白が笑う。
「明日のことは?」
林夏は少し考えた。
そして。
いつものように言った。
「明日のことは、明日考えればいい」
五人は席を立った。
誰も。
誰かを完全には理解していなかった。
だから。
誰も。
誰かの人生を決めることもなかった。




