第五章 逃げた先で、君と
地下道の奥から、足音が響いていた。
――カツ。
――カツ。
一定の間隔。
迷いのない歩き方だった。
林夏は暗闇を見つめた。
「……あれ、追跡者?」
「違う」
月白が答えた。
「もっと悪い」
「もっと悪いの?」
「修正機構の自動執行体」
「名前からして嫌だな」
赤い光が一つ、また一つと増えていく。
暗闇の中から現れたのは、人間の形をした機械だった。
細い身体。
白い外装。
顔に目も鼻もない。
胸の中央にだけ、円形の紋章が刻まれている。
その紋章が、赤く点滅した。
『対象確認』
『異常因子――月白』
『未定義因子――林夏』
『修正を開始します』
林夏は首を傾げた。
「ねえ」
「何?」
「修正って、具体的には何をするの?」
月白の顔が曇った。
「その人が選んだものを、元に戻す」
「元に?」
「出会う前に戻す」
「……記憶を消す?」
「場合によっては」
「なるほど」
林夏は機械を見た。
「じゃあ、俺たちが今まで会ったこともなかったことにするのか」
「そう」
「それは困るな」
「どうして?」
「ラーメン代、まだもらってない」
「……」
月白が呆れた顔をした。
「そんな場合じゃないでしょう」
「俺にとっては大事な問題だよ」
機械の腕が上がった。
空気が震える。
林夏は月白の腕を引いた。
「伏せて!」
次の瞬間。
赤い光が地下道を横切った。
壁が音もなく切断される。
「……あれ、当たったら死ぬ?」
「たぶん」
「たぶん?」
「死ぬと思う」
「じゃあ、もっと早く言って!」
二人は走り出した。
地下道の分岐を左へ。
さらに階段を上る。
後ろから機械の足音が追ってくる。
林夏は息を切らしながら叫んだ。
「出口は?」
「分からない!」
「え?」
「私もここは初めて!」
「なんで先に言わないんだよ!」
「あなたが走り出したから!」
「それは君が『走って』って言ったからだろ!」
「そうだった!」
二人は同時に黙った。
そして、なぜか少しだけ笑った。
こんな状況なのに。
追われているのに。
死ぬかもしれないのに。
笑ってしまった。
そのことが、月白には不思議だった。
これまで、自分の周りではいつも誰かが「正しい選択」をしようとしていた。
逃げるべきか。
戦うべきか。
誰を守るべきか。
誰を切り捨てるべきか。
全部、最初から決められているようだった。
なのに、この男は違う。
怖がって。
文句を言って。
ラーメンを惜しんで。
それでも、自分で走っている。
「林夏」
「ん?」
「どうして私を助けるの?」
林夏は走りながら答えた。
「助けてるつもりはないよ」
「え?」
「一緒に逃げてるだけ」
「……同じじゃない?」
「全然違う」
林夏は笑った。
「君を助けるって言ったら、君の人生まで俺が何とかしなきゃいけなくなるだろ」
「……」
「でも、そんなこと俺にはできない」
月白は何も言わなかった。
「君の人生は君のものだよ」
林夏は前を向いた。
「俺は、隣を走るくらいならできるけど」
その言葉が、妙に胸に残った。
そのとき。
前方に、小さな光が見えた。
「出口!」
二人は一気に走った。
階段を上がる。
重い扉を押し開ける。
外へ出た瞬間。
雨が降っていた。
また雨だった。
第七街区の雨は、いつだって理由がない。
月白は空を見上げた。
冷たい雨が頬を濡らす。
「……また雨」
「この街、雨多すぎない?」
林夏が言った。
「知らない」
「修理屋としては困るんだよな。湿気で工具が錆びる」
「今、それ?」
「大事だよ」
林夏は周囲を見回した。
古い商店街。
閉まった店。
誰もいない路地。
「とりあえず、隠れる場所を探そう」
「どこへ?」
「知り合いの店がある」
「信頼できる人?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺、人付き合いそんなに多くないから」
月白は少し笑った。
「あなた、本当に修理屋なのね」
「そうだよ」
「世界を救う英雄とかじゃなくて?」
「そんなの無理」
「……」
「俺、朝起きるの苦手だし」
月白は思わず笑った。
今度は、さっきより少し長く。
林夏も笑った。
二人は雨の中を歩き始めた。
けれど。
その背後。
地下道の出口に、白い機械が立っていた。
機械は二人を追わなかった。
ただ、赤い光を点滅させる。
『追跡を一時停止』
『命軌変動を確認』
『新たな因果接続を検出』
『対象二名の関係性――解析不能』
少しの沈黙。
そして。
『上位修正権限への報告を開始』
雨音に紛れて、その声は消えた。
一方。
林夏と月白は、まだ何も知らない。
自分たちの出会いが。
すでに「修正すべき異常」として、世界のどこかに記録されたことを。




