第三十一章 選ぶ前に変わる世界
屋上庭園には、風が吹いていた。
夕暮れの空が、少しずつ暗くなっていく。
ユウは手すりにもたれながら、街を眺めていた。
「ここ、静かですね」
「駅のすぐ近くなのにね」
月白が答える。
下を見れば、さっきまで歩いていた人々が小さく見える。
車。
信号。
店の明かり。
誰も、この場所を気にしていない。
林夏はベンチに座った。
「いい場所だな」
紅葉も少し離れたところで街を見ている。
「……確かに」
「珍しいな。紅葉が素直に認めるなんて」
「うるさい」
「はいはい」
澪は一人だけ、端末を見続けていた。
【環境:未確定】
その表示は変わらない。
けれど、その下に新しい項目が増えている。
【周辺因果:調整中】
澪は眉を寄せた。
「……始まってる」
「何が?」
林夏が聞く。
「周辺環境の調整」
「さっき言ってたやつ?」
「そう」
澪は街を見下ろした。
「ユウ自身を直接動かすことができないなら、ユウの周囲を変える」
「例えば?」
「例えば……」
澪は少し考えた。
「行きたい店が突然閉まる」
「それくらいなら普通にあるだろ」
「逆もある」
「逆?」
「行くつもりがなかった店が、偶然目の前に現れる」
林夏が笑う。
「それも普通だな」
「だから難しい」
澪は端末を閉じた。
「普通の出来事に見える範囲で調整されるなら、見分けるのは難しい」
ユウが振り返った。
「じゃあ、どうするんですか?」
「何もしない」
「え?」
「しばらく観察する」
澪はそう答えた。
「どこまでが偶然で、どこからが調整なのか。それを確認する」
林夏が立ち上がった。
「じゃあ、帰るか」
ユウが聞く。
「どこへ?」
「知らない」
「またですか」
「今日はそれでいい」
五人は屋上を出た。
階段を下りる。
一階まで戻ったところで、ユウが足を止めた。
「……あれ?」
道路の向こうに、小さな店があった。
さっきまでなかった店だった。
少なくとも、ユウは見ていない。
看板には、
『月見堂』
と書かれている。
月白がその名前を見て、少し驚いた。
「……また?」
林夏も看板を見る。
「この前の店と同じ名前だな」
紅葉が周囲を見る。
「同じ店なのか?」
「分からない」
澪は端末を確認した。
表示は変わらない。
【環境:未確定】
ただし。
【周辺因果:調整中】
の文字だけが点滅していた。
ユウが店を見つめる。
「入ってみます?」
月白が答える。
「どうする?」
林夏はユウを見た。
「君は?」
「……入りたいです」
「じゃあ、入ろう」
五人は店に入った。
中は、以前の月見堂とよく似ていた。
木のテーブル。
古い時計。
ガラスケースに並ぶ和菓子。
けれど、店主は違った。
若い女性だった。
「いらっしゃいませ」
五人は席についた。
店主がメニューを置く。
「ご注文は?」
林夏がメニューを見る。
「団子」
紅葉が呆れる。
「即答するな」
「好きだから」
月白は小さく笑った。
ユウはメニューを眺めている。
「何にしよう……」
その瞬間。
澪の端末が光った。
【選択候補生成】
三つの表示が現れる。
【団子】
【羊羹】
【抹茶】
澪が顔を上げる。
「……」
林夏がそれを見る。
「また三つ」
紅葉が眉をひそめる。
「ここまで来ると、さすがに偶然とは言いにくいな」
ユウは三つの候補を見た。
「でも、これ……」
「どうした?」
月白が聞く。
「店員さんのメニューには、四つ目があります」
全員がメニューを見る。
確かに。
端のほうに、小さく書かれている。
【季節の菓子】
ユウが指差した。
「これにします」
端末が一瞬止まった。
【選択:未登録】
そして。
【予測失敗】
澪は何も言わなかった。
店主が笑顔で尋ねる。
「季節の菓子ですね。少々お待ちください」
しばらくして。
小さな皿が運ばれてきた。
そこには、見たことのない菓子が一つだけ載っていた。
ユウが一口食べる。
「……美味しい」
月白も一口食べた。
「本当」
林夏が手を伸ばす。
「俺も」
紅葉がその手を叩いた。
「自分のを頼め」
「ケチだな」
「人のものを取るな」
澪はその様子を見ていた。
何気ない会話。
何気ない食事。
何も起こっていない。
なのに。
彼女の端末には、異常な表示が出ていた。
【周辺因果:安定】
【環境調整:継続】
【予測成功率:上昇】
澪は目を細めた。
「……おかしい」
「何が?」
月白が聞く。
「予測は失敗している」
「うん」
「なのに、予測成功率が上がっている」
林夏が首を傾げる。
「どういうこと?」
「ユウが何を選ぶかは、予測できていない」
澪は画面を見せた。
「でも、ユウが選択する状況そのものは、少しずつ予測できるようになっている」
紅葉が黙った。
「つまり?」
「ユウが何を選ぶかは分からない」
澪はゆっくり言った。
「でも、ユウが選びそうな場所、時間、人、状況を絞っていけば……」
林夏が言葉を続けた。
「選択肢を減らせる?」
「そう」
ユウは菓子を食べながら聞いていた。
「それって……」
彼は皿を見た。
「僕が何を選ぶかを決めるんじゃなくて」
少し考える。
「僕が選べるものを少なくするってことですか?」
澪は頷いた。
「その可能性がある」
ユウは黙った。
月白が彼を見る。
「嫌?」
「……少し」
「そうだよね」
林夏はテーブルに肘をついた。
「でも、まだ決まったわけじゃない」
「はい」
「だったら、普通にしてればいい」
ユウは林夏を見る。
「普通に?」
「腹が減ったら食べる」
「はい」
「帰りたかったら帰る」
「はい」
「帰りたくなかったら帰らない」
ユウは笑った。
「簡単ですね」
「人生なんて、案外そんなもんだ」
そのとき。
店の外から大きな音がした。
全員が振り返る。
道路で、工事車両が一台止まっている。
作業員が看板を立てていた。
『本日、駅前道路通行止め』
紅葉が窓の外を見る。
「……さっきまで、そんな看板なかったぞ」
澪が立ち上がった。
「確認してくる」
店の外に出る。
数分後。
澪が戻ってきた。
「道路は、本当に通行止め」
「事故?」
「違う」
「工事?」
「そう」
「いつから?」
「今日の夕方から」
林夏は少し考えた。
「じゃあ、普通だな」
澪は首を横に振った。
「でも、私たちがさっき通ったときには、工事の気配はなかった」
沈黙。
ユウが窓の外を見る。
通行止めになった道路の先には、駅がある。
駅へ行くには、別の道を使わなければならない。
その別の道の先には。
三つの道がある。
右。
左。
正面。
紅葉が気づいた。
「……また三つか」
誰も笑わなかった。
ユウはしばらく黙っていた。
そして。
「じゃあ、明日はここに来ません」
林夏が聞く。
「どうして?」
「この店が嫌いになったわけじゃないです」
ユウは店の看板を見た。
「ただ、次に来る場所を決められるのが嫌なので」
月白が静かに頷いた。
「それでいいと思う」
ユウは笑った。
その瞬間。
澪の端末に新しい文字が浮かんだ。
【予測対象:ユウ】
【環境調整:失敗】
【次回環境:未確定】
そして最後に。
【予測不能性:さらに上昇】
澪は画面を見つめた。
今度は、少しだけ笑った。
「……逆効果かもしれない」
林夏が聞く。
「何が?」
「環境を狭めようとするほど」
澪はユウを見る。
「ユウが、そこから出ようとする」
ユウは何も言わなかった。
ただ。
食べ終わった皿を見て、少し笑った。
その日の帰り道。
五人は誰も、明日の予定を決めなかった。
けれど。
そのこと自体が。
今では、ひとつの選択になっていた。




