第三章 交わらないはずの二人
月白の顔から、血の気が引いた。
「あなたの命軌も……」
「俺?」
林夏は自分を指差した。
「いや、俺は普通だよ」
「普通じゃない」
月白は即答した。
あまりにも迷いがなかったので、林夏は少し傷ついた。
「初対面でそこまで言われると、けっこうへこむんだけど」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
月白は答えなかった。
代わりに、壁際に置かれた古い測定器を見た。
針はまだ震えている。
さっきまで彼女のほうを指していた針が、今は完全に林夏へ向いていた。
しかも、一定ではない。
右へ振れたかと思えば、次の瞬間には左へ戻る。
まるで、測る対象そのものが存在しないかのように。
「命軌が……読めない」
「読めない?」
「普通の人間なら、命軌には必ず流れがある」
月白は小さな声で続けた。
「生まれてから死ぬまで、無数の選択肢があっても、大きな流れそのものは変わらない。誰と出会うか。誰を好きになるか。どこで別れるか。どこで死ぬか」
「ずいぶん細かく決まってるんだな」
「だから、修正できる」
その言葉だけで、林夏は少し黙った。
外から、金属の擦れる音が聞こえた。
近い。
さっきより、ずっと近い。
月白が立ち上がろうとした。
「ここにいてはいけない」
「怪我人が勝手に歩くなよ」
「でも――」
「血がまた出てる」
林夏は彼女の肩を指差した。
包帯の端に、赤い色がにじんでいる。
「動くなら、せめてこれを巻き直してから」
「あなたは……」
月白は林夏を見た。
「怖くないの?」
「怖いよ」
「……」
「普通に怖い」
林夏はあっさり答えた。
「知らない人に追われてるし、よく分からない武器で怪我してるし、さっきから変な機械は壊れかけてる。しかも外には、どう考えても俺を探してる人たちがいる」
「なら、なぜ逃げないの?」
「店だから」
「店?」
「俺の店」
林夏は店内を見回した。
古びた工具。
壁に掛けられたレンチ。
修理途中の時計。
半分だけ分解された炊飯器。
そして、食べかけの豚骨ラーメン。
「ここ、俺の生活なんだよ」
月白は黙った。
林夏は少しだけ笑った。
「知らない人に追われてるからって、いきなり自分の生活を全部捨てるほど、俺は立派じゃないんだ」
その言葉を聞いた月白の目が、ほんの少し揺れた。
そのときだった。
――コン。
扉が鳴った。
二人とも動きを止める。
続けて、もう一度。
――コン。
「林夏さん」
外から声がした。
若い男の声だった。
穏やかで、丁寧だった。
だからこそ、妙に不気味だった。
「そこにいることは分かっています」
林夏は月白を見る。
月白は首を横に振った。
開けるな。
そういう意味だ。
林夏はうなずいた。
そして、扉の前まで歩いていった。
「何か用?」
「少し確認したいことがあります」
「営業時間外なんだけど」
「営業時間は関係ありません」
「じゃあ、なおさら嫌だな」
外の男が一瞬黙った。
「あなたの店に、異常因子が侵入しました」
林夏は眉を上げた。
「異常因子?」
「彼女です」
月白の表情が変わる。
「引き渡してください」
「嫌だ」
即答だった。
月白が目を見開く。
外の男も沈黙した。
「……理由を聞いても?」
「怪我してるから」
「それだけですか?」
「それだけで十分だろ」
林夏は扉に手を置いた。
「うちの店に入ってきた客が怪我してる。治療してる途中なんだ。途中で捨てるのは、修理屋としてどうかと思う」
「彼女は人間の命軌から外れています」
「そうなんだ」
「放置すれば、周囲の命軌まで乱れます」
「へえ」
「あなた自身も巻き込まれます」
「もう巻き込まれてるみたいだけど」
林夏は頭をかいた。
「だったら、今さらだろ」
月白は何も言わなかった。
ただ、林夏の背中を見ていた。
扉一枚。
向こう側には、命運修正機構の人間。
こちら側には、命軌を失った少女と、命軌を読めない修理屋。
普通なら、ここで選ぶべきだった。
月白を引き渡す。
自分の生活を守る。
それが、一番簡単だ。
そのはずだった。
「林夏」
月白が小さく呼んだ。
「ん?」
「私を渡して」
林夏が振り返る。
「何言ってんの?」
「あなたまで巻き込まれる」
「だから?」
「あなたには関係ない」
「それ、さっきから何回目?」
林夏はため息をついた。
「関係ない人間って、そんな簡単に決められるものなのか?」
月白は答えられなかった。
「俺はもう、君の血を止めた」
林夏は自分の手を見る。
血が少しだけ残っていた。
「名前も聞いた」
「……」
「飯も途中まで食べた」
「それは関係ないと思う」
「俺にとっては関係ある」
林夏は笑った。
「だから、今日の問題は今日解決する」
月白の瞳が揺れた。
その瞬間。
壁際の測定器が、突然大きな音を立てた。
――ピィィィィッ。
針が限界まで振り切れる。
そして、表示板に一つの文字が浮かんだ。
【命軌:未定義】
林夏の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……未定義?」
月白も、その文字を見ていた。
彼女は初めて、本当に驚いた顔をした。
「そんなもの……存在しないはず」
外から、低い声が響いた。
「確認しました」
扉の向こうの男が言う。
「林夏さん」
「はい?」
「あなたも、修正対象です」
店の中が静まり返った。
林夏はしばらく扉を見つめていた。
そして、食べかけのラーメンを振り返った。
「……麺、伸びるな」
「そこ?」
月白が思わず言った。
「そこだよ」
林夏は真顔で答えた。
「豚骨は時間との勝負だから」
月白は、初めて少しだけ笑った。
ほんの一瞬だった。
けれど、その笑顔を見た瞬間。
測定器の針が、また動いた。
二人の命軌を示す二本の線が、画面の上でゆっくりと重なっていく。
そして。
本来なら絶対に交わるはずのなかった二本の線は――
一本になった。
外で、何かが抜かれる音がした。
林夏は工具箱から一本の古いレンチを取り出した。
「月白」
「何?」
「走れる?」
「……たぶん」
「じゃあ、逃げるぞ」
「どこへ?」
林夏は少し考えた。
「知らない」
「……」
「明日のことは、明日考えればいい」
次の瞬間。
万事修理店の扉が、内側から吹き飛んだ。




