第二十八章 終点のない一日
翌朝。
林夏は、いつものように目を覚ました。
窓の外は晴れていた。
昨日まで続いていた曇り空が嘘のように、青い空が広がっている。
「……晴れたな」
林夏は窓を開けた。
冷たい風が入ってくる。
「今日は何をする?」
後ろから月白の声がした。
「朝飯」
「それは予定じゃないでしょう」
「いや、かなり重要な予定だよ」
林夏は真剣な顔で振り返った。
「朝飯を食べないと、一日が始まらない」
紅葉が椅子に座ったまま、ため息をつく。
「お前は本当にそればかりだな」
「食事を軽視する人生は、たぶん長続きしないぞ」
「昨日まで運命の話をしていた人間の台詞とは思えない」
「運命より朝飯のほうが近いからな」
澪は端末から顔を上げた。
「……合理的ではある」
「だろ?」
「ただし、あなたの場合は食べたいだけに見える」
「それも正解」
月白が小さく笑った。
その横で、ユウは黙って自分の端末を見ていた。
画面には、昨日と同じ表示が出ている。
【未来:未確定】
【次回選択:未設定】
【終点:未設定】
昨日までは、そこに別の数字があった。
二十七歳。
命軌の終了地点。
けれど、今はない。
「……本当に消えたんだ」
ユウが呟いた。
林夏が隣から画面を見る。
「うん」
「戻る可能性は?」
「分からない」
澪が答えた。
「少なくとも、現在の観測では戻っていない」
「じゃあ、俺は……」
ユウは少し考えた。
「何歳まで生きるんだろう」
林夏は肩をすくめた。
「知らない」
「即答ですね」
「だって知らないものは知らない」
林夏は笑った。
「でも、分からなくなったなら、それでいいんじゃないか?」
「……」
「二十七歳で終わるって決められていた時より、今のほうが選べることは多いだろ」
ユウは端末を見つめた。
しばらくして、小さく頷いた。
「うん」
その瞬間だった。
端末の画面が、一度だけ暗くなった。
全員が顔を上げる。
数秒後。
新しい文字が浮かんだ。
【観測対象:ユウ】
【命軌:正常】
【終点:未設定】
その下に、見たことのない一行が追加されていた。
【終点予測:算出不能】
澪の表情が変わる。
「……予測不能?」
「昨日までは?」
紅葉が聞く。
「昨日までは、そもそも予測する必要がなかった」
澪は画面を拡大した。
「二十七歳という終点が設定されていたから」
「つまり?」
月白が聞く。
澪は少し黙った。
「今のユウには、終点を予測するための基準そのものがない」
林夏は端末を覗き込みながら言った。
「じゃあ、分からないってことだな」
「そう」
「なら、普通じゃないか」
紅葉が眉をひそめる。
「何がだ?」
「人間の未来なんて、普通は分からないだろ」
誰も答えなかった。
林夏は少し考えてから、笑った。
「だったら、やっと普通になったんじゃないか?」
そのとき。
遠くで、時計の音がした。
一回。
二回。
三回。
街のどこかにある巨大な時計。
昨日までなら、その音に合わせるように何かの記録が更新されていた。
しかし今日は、何も起こらなかった。
四人が顔を見合わせる。
ユウだけが、窓の外を見ていた。
「……あれ」
「どうした?」
林夏が聞く。
ユウは道路の向こうを指差した。
「昨日の人です」
そこに、黒い服の男が立っていた。
命運修正機構の人間。
けれど、昨日までとは少し違った。
男はユウを見ていた。
その表情には怒りも焦りもなかった。
ただ、困ったように一枚の紙を眺めている。
やがて男は紙を折った。
そして、こちらへ歩いてきた。
「……今日は何の用だ?」
紅葉が身構える。
男は立ち止まった。
「確認です」
「確認?」
「はい」
男はユウを見た。
「あなたの命軌について、修正指示が出ていません」
ユウは黙っている。
「それだけ?」
林夏が聞く。
「それだけです」
「じゃあ帰れば?」
男は少し困った顔をした。
「それができないのです」
「なんで?」
「記録がないからです」
林夏は首を傾げた。
「記録がないと帰れないの?」
「正確には……」
男は紙を見た。
「帰る場所を決められません」
沈黙が落ちた。
澪が静かに尋ねる。
「あなたたちは、帰る場所まで命軌から決めているの?」
「通常はそうです」
「通常は?」
「出生、生活、出会い、仕事、結婚、別離、死亡」
男は淡々と答えた。
「人生の主要な分岐には、すべて基準があります」
月白が聞いた。
「では、基準がない人は?」
男はユウを見る。
「観測できません」
「観測できないなら?」
「待つしかありません」
ユウが初めて口を開いた。
「何を?」
男は少し考えてから答えた。
「あなたが、次に何を選ぶのかを」
ユウは端末を見た。
【次回選択:未設定】
その文字を見て、少しだけ笑った。
「じゃあ……」
彼は顔を上げた。
「俺が決めるまで、待っていてください」
男は答えなかった。
ただ、一度だけ頷いた。
そして、来た道を戻っていった。
紅葉がその背中を見ながら言う。
「ずいぶん素直だったな」
「仕事だからな」
林夏はそう言って、靴を履いた。
「さて」
「どこへ行くの?」
月白が聞く。
林夏は少し考えた。
「分からない」
「珍しいですね」
澪が言う。
「でも、今日はそれでいい」
林夏は扉を開けた。
「ユウ、どうする?」
ユウは少し考えた。
学校。
仕事。
食事。
買い物。
友達。
知らない街。
昨日までなら、その一つ一つが未来のどこかに並べられていた。
今は何もない。
だからこそ。
「……歩きたいです」
「どこまで?」
「分かりません」
林夏が笑った。
「じゃあ、行こう」
五人は歩き始めた。
行き先は決めなかった。
地図も開かなかった。
誰かが曲がれば、その方向へ。
誰かが立ち止まれば、一緒に止まる。
しばらく歩いたところで、ユウが言った。
「……これ、結構楽しいですね」
月白が隣で笑う。
「うん」
紅葉は前を見たまま言った。
「迷っているだけにも見えるけどな」
澪は端末を見ていた。
画面には新しい記録が一つだけ表示されている。
【次回選択:未設定】
その文字は、昨日から変わっていない。
けれど、その下に。
昨日まで存在しなかった文字が、ゆっくり浮かび上がった。
【観測状態:待機】
さらに一行。
【予測対象:次の選択】
澪はその表示を見つめた。
「……始まった」
林夏が振り返る。
「何が?」
澪は答えなかった。
五人の前には、三つの道があった。
右。
左。
そして、真っ直ぐ。
どこにも案内板はない。
どの道を選んでも、危険には見えなかった。
ただ。
端末の画面だけが、静かに更新された。
【選択肢:三】
ユウはそれを見た。
そして、少しだけ笑った。
「……また三つなんだ」
林夏も画面を見る。
「そうみたいだな」
「どうします?」
ユウが聞く。
林夏は肩をすくめた。
「知らない」
そして、三つの道を見た。
「ユウが決めればいい」
ユウは少し黙った。
右を見る。
左を見る。
真っ直ぐを見る。
それから。
三つの道のどれでもない場所へ歩き出した。
「……え?」
紅葉が目を丸くする。
ユウは道の脇にある、小さな階段を指差した。
「こっち」
「道じゃないぞ?」
「だからです」
林夏が笑った。
「なるほど」
五人は階段を下りていった。
その瞬間。
端末の画面から、
【選択肢:三】
という文字が消えた。
代わりに。
【選択:未登録】
と表示された。
そして、その下に新しい一行が現れた。
【観測継続】
街のどこかで。
また時計が鳴った。
今度は。
誰のための時間なのか、誰にも分からなかった。




