第二十六章 選ばないという選択
「何にする?」
林夏はメニューをユウの前に置いた。
ユウは真剣な顔で眺めている。
「……ラーメン」
「昨日も食べた」
「じゃあ、定食」
「月白と同じになるよ」
「じゃあ……」
ユウはしばらく悩んだ。
紅葉が横から言う。
「好きなものを選べばいいでしょう」
「それが難しいんです」
「どうして?」
「昨日までは、何も考えずに選んでたから」
ユウはメニューを見る。
「今は、何を選んでも意味がある気がして」
澪が言った。
「それは、選択に意味を持たせすぎています」
「え?」
「すべての選択が命軌を変えるとは限りません」
澪は淡々と続けた。
「昨日の菓子が命軌を変えたのも、結果としてそうなっただけです」
「じゃあ、何が重要なの?」
「分かりません」
林夏が笑った。
「ほら」
澪を見る。
「また分からない」
「はい」
「それでいいじゃん」
ユウは少し考えた。
「……じゃあ」
メニューを閉じる。
「ラーメンにします」
「どうして?」
「食べたいから」
林夏が頷いた。
「それで十分」
注文を終える。
五人は料理を待った。
その間、誰も命軌の話をしなかった。
昨日までなら、何か重大なことを話していたかもしれない。
でも今日は。
ただ待った。
厨房から音がする。
食器の音。
水の音。
店員の声。
外を走る車。
普通の音だった。
ユウは少しだけ安心した。
「……こういう時間」
月白が聞く。
「何?」
「好きかも」
「俺も」
林夏が答える。
「何も起きない時間って、意外と貴重だから」
紅葉が言った。
「あなたが言うと、次に何か起きそうね」
「そんなことないって」
その瞬間。
店の扉が開いた。
五人が同時に振り返る。
しかし。
入ってきたのは普通の客だった。
中年の男性。
新聞を持っている。
男性は席に座り、新聞を開く。
「……」
紅葉が林夏を見る。
林夏は肩をすくめた。
「俺のせいじゃない」
「まだ何も言ってないでしょう」
「顔に書いてあった」
月白が笑った。
そのとき。
店員が料理を運んできた。
「お待たせしました」
ラーメン。
定食。
魚。
そしてユウのラーメン。
「いただきます」
ユウは箸を取った。
一口食べる。
「……美味しい」
林夏が満足そうに頷く。
「だろ?」
「林夏さんが作ったわけじゃないですよね」
「気持ちの問題」
「何の?」
「美味しい気持ち」
「よく分かりません」
五人が笑った。
その様子を。
新聞を読んでいた男が一度だけ見た。
そして。
新聞の陰で、小さな端末を操作した。
【対象五名】
【日常行動:安定】
【命軌変動:なし】
【介入:不要】
画面を閉じる。
男は何事もなかったように新聞を読み続けた。
⸻
食事を終えた五人は、街を歩いた。
今日は何も予定がない。
だからこそ。
どこへ行くかも決まっていない。
「どっちに行く?」
月白が聞いた。
右には大通り。
左には細い道。
林夏は二つを見る。
「右」
紅葉が聞く。
「理由は?」
「なんとなく」
「……それだけ?」
「うん」
「あなたは本当に適当ね」
「じゃあ紅葉は?」
「私は左」
「じゃあ左」
「どうして!」
「多数決」
「まだ誰も投票してないでしょう!」
ユウが笑った。
澪も少しだけ笑う。
「では、三対一です」
「澪まで……」
「私は左です」
「裏切ったわね」
五人は左へ進んだ。
細い道だった。
古い建物が並んでいる。
しばらく歩くと、小さな公園があった。
公園の入口には看板がある。
『市民相談所』
その横に、小さな掲示板。
いくつもの紙が貼られている。
「何だろう」
月白が近づく。
掲示板には、様々な案内があった。
仕事。
住居。
学校。
医療。
相談。
そして。
一枚だけ、妙な紙があった。
『あなたの人生に迷ったら、三つの道から一つを選んでください』
紅葉が眉を寄せる。
「またこれ?」
紙の下には三つの選択肢。
【A 現在の生活を維持する】
【B 過去に戻る】
【C 新しい生活を始める】
ユウが黙った。
林夏は紙を見る。
「これ、誰が選ぶの?」
「たぶん本人でしょう」
澪が答える。
「でも」
月白が言った。
「過去に戻るって、どういう意味?」
誰も答えない。
紅葉が紙を剥がそうとした。
しかし。
紙は剥がれなかった。
「……」
紅葉が力を入れる。
動かない。
「硬い」
澪が調べる。
「特殊な固定です」
林夏は紙の下を見る。
そこに小さく書かれていた。
【回答しない場合、現在の生活を維持します】
林夏が笑う。
「なるほど」
「何?」
「これ、四つ目があるじゃん」
ユウが気づく。
「回答しない」
「そう」
林夏は紙を指差した。
「三つじゃない」
澪が画面を見る。
「……確かに」
紅葉が腕を組む。
「でも、回答しないということも、結局は現在を選ぶことになるんじゃない?」
林夏は首を傾げた。
「そうかもしれない」
「じゃあ四つ目じゃないでしょう」
「いや」
林夏は紙を見る。
「自分で決めたくないときに、決めないこともある」
「……」
「それを誰かが勝手に『現在を選んだ』って記録するなら」
林夏は笑わなかった。
「それも、違うんじゃない?」
月白が静かに頷いた。
「選ばないことと、現在を選ぶことは違う」
澪がその言葉を端末に記録する。
「記録しました」
紅葉が聞く。
「何を?」
「新しい概念です」
「名前は?」
澪は少し考えた。
「保留」
ユウが言う。
「それ、選択なの?」
澪は答えなかった。
そのとき。
掲示板の紙が一枚、風もないのに揺れた。
裏側に文字が浮かぶ。
【保留:許可されていません】
五人が黙る。
林夏が紙を見る。
「……だってさ」
紅葉が言う。
「誰に?」
「たぶん、あいつら」
「命運修正機構?」
「うん」
月白が紙に触れる。
すると。
紙の文字が変わった。
【保留:例外申請】
【申請者:月白】
月白の顔が変わる。
「……私?」
林夏が彼女を見る。
「触っただけだろ」
「うん」
「じゃあ、勝手に名前を使われた?」
月白は紙から手を離した。
「たぶん」
その瞬間。
公園の奥から声が聞こえた。
「違います」
五人が振り返る。
昨日の黒い服の男が立っていた。
「あなた自身が選択したからです」
月白が睨む。
「何を?」
「保留を」
「私は何も選んでない」
「それも一つの選択です」
林夏が一歩前へ出る。
「またそれか」
男は林夏を見る。
「はい」
「じゃあ聞くけど」
林夏は言った。
「何もしないことまで、全部『選択』にするなら」
少し間を置く。
「人間は、何をしても逃げられないじゃん」
男は答える。
「その通りです」
林夏の表情が変わる。
「……え?」
男は続けた。
「選択しないことも選択です」
「だから?」
「だから、運命から完全に外れることはできません」
林夏はしばらく黙っていた。
そして。
「それなら」
笑った。
「運命のほうを外せばいい」
男は黙った。
月白が林夏を見る。
紅葉も。
澪も。
ユウも。
林夏は掲示板を指差した。
「俺たちが選ぶんじゃない」
「……」
「選択肢が間違ってるなら」
林夏は言った。
「選択肢を作ったやつのほうを疑えばいい」
男の端末が点滅する。
【新規発言】
【分類:未知】
【予測:不能】
男は初めて、少しだけ笑った。
「……なるほど」
「何?」
「あなたたちは、やはり面白い」
「褒めてる?」
「いいえ」
男は背を向けた。
「警戒しています」
そう言って。
男は公園の奥へ消えていった。
五人はしばらくその場に残った。
やがてユウが言う。
「林夏さん」
「ん?」
「俺、分かったことがあります」
「何?」
「選択肢があるから選ぶんじゃない」
林夏がユウを見る。
ユウは続けた。
「選びたいから、選ぶんですよね」
林夏は笑った。
「たぶん」
「たぶん?」
「俺も分からないから」
ユウは笑った。
そして。
五人は公園を出た。
掲示板には、まだ三つの選択肢が残っている。
しかし。
その紙の一番下に。
誰にも見られない小さな文字が追加されていた。
【第四の選択:保留】
その下には。
さらに小さく。
【第五の選択:未定義】
そして、その文字を記録したのは。
修正機構でも。
観測者でもなかった。
誰にも命じられていない。
誰にも頼まれていない。
ただ。
ユウ自身だった。




