第二十三章 近づく理由
翌朝。
林夏は、いつもより早く目を覚ました。
理由はない。
ただ、なんとなく目が覚めた。
窓の外を見る。
昨日と同じ街。
同じ建物。
同じ道路。
同じ人の流れ。
「……普通だな」
ベッドから起き上がる。
月白はまだ寝ている。
紅葉も寝ている。
澪は――
「……起きてる?」
「はい」
部屋の隅から返事があった。
林夏が振り返る。
澪は椅子に座って、端末を見ていた。
「何してるの?」
「記録しています」
「何を?」
「この街の変化」
「何か変わった?」
「少しだけ」
澪は画面を見せた。
そこには、昨日まで存在しなかった項目があった。
【観測対象:五】
【共同因果:継続】
【干渉:なし】
そして、その下に。
【選択可能性:上昇】
林夏は首を傾げた。
「これ、いいこと?」
「分かりません」
「だよな」
林夏は笑った。
そのとき。
月白が目を覚ました。
「……朝?」
「おはよう」
「おはよう」
月白は眠そうに起き上がった。
紅葉も少し遅れて目を開ける。
「……朝からうるさい」
「朝だから」
「意味が分からない」
「朝は起きる時間だろ」
「あなたは黙って」
四人はいつものように言い合った。
その様子を、窓の外から見ている人間がいた。
少年だった。
建物の影に隠れている。
昨日の少年。
彼は四人を見ていた。
特に林夏を。
昨日、林夏は言った。
――本人が来るまで待つ。
その言葉が、頭から離れなかった。
少年は一歩前に出る。
しかし、すぐに戻る。
「……無理だ」
また一歩。
「……やっぱり無理」
三歩。
「……怖い」
そこで止まった。
自分でも笑ってしまう。
「何やってるんだ、俺」
少年は空を見上げた。
そして、ゆっくり歩き始めた。
今度は逃げなかった。
⸻
「今日はどうする?」
月白が聞いた。
林夏は考える。
「まず飯」
「また?」
「朝飯は重要だよ」
紅葉がため息をつく。
「あなた、本当に食べることばかりね」
「食べないと死ぬ」
「極端」
「大事なことだよ」
澪が頷いた。
「合理的です」
紅葉が澪を見る。
「あなたまで……」
四人は街へ出た。
昨日と同じ通り。
昨日と同じ人々。
しかし。
今日は一人だけ違っていた。
林夏が足を止める。
「……あ」
道の向こう。
少年が立っている。
少年も四人を見ている。
逃げない。
林夏は何も言わなかった。
近づかなかった。
ただ、その場に立った。
少年は少しずつ歩いてくる。
一歩。
また一歩。
そして、四人から数メートル離れた場所で止まった。
「……こんにちは」
小さな声だった。
林夏が笑う。
「こんにちは」
月白も軽く頭を下げる。
「こんにちは」
紅葉は黙っている。
澪は少年を見ていた。
少年は少し緊張した様子で言った。
「昨日……」
「うん」
「見えました」
林夏は頷く。
「そうみたいだな」
「あなたたちが」
「うん」
「俺だけ?」
「たぶん」
少年は俯いた。
「……怖かった」
「そうだよな」
「追ってこなかった」
「追う理由がなかったから」
「どうして?」
林夏は少し考えた。
「逃げたい人を追いかけるの、好きじゃないから」
少年は顔を上げた。
林夏は続ける。
「それに、会いたいなら自分で来ればいい」
「……」
少年は黙った。
そして、小さく笑った。
「来ました」
「うん」
「俺、ユウっていいます」
林夏は頷いた。
「俺は林夏」
「月白です」
「紅葉」
「澪です」
四人が順番に名乗る。
ユウは少し驚いた顔をした。
「……名前、教えてくれるんですね」
「聞かれたから」
「普通は、知らない人に教えないんじゃないですか?」
紅葉が言った。
「じゃあ、私は言わなくてもよかった?」
「……いえ」
ユウは苦笑した。
「ありがとうございます」
林夏が聞く。
「それで、ユウは何をしたい?」
「……分かりません」
「そっか」
「でも」
ユウは四人を見る。
「少しだけ、一緒に歩いてもいいですか?」
林夏はすぐに答えなかった。
月白を見る。
紅葉を見る。
澪を見る。
三人も何も言わない。
林夏はユウに聞いた。
「自分で決めた?」
「はい」
「じゃあ、いいよ」
ユウの顔が少し明るくなった。
「ありがとうございます」
五人が歩き始める。
その瞬間。
澪の端末が鳴った。
ピッ。
全員が止まる。
画面には、
【新規選択:同行】
と表示されていた。
その下には、
【対象:ユウ】
【命軌:正常】
【選択理由:本人希望】
そして最後に。
【共同因果:五人】
林夏は画面を覗き込む。
「五人になった」
紅葉が言う。
「そうね」
月白が少し笑う。
「増えちゃったね」
「何人まで増えるんだろう」
林夏が言う。
紅葉が睨む。
「これ以上増やす気?」
「いや、別に」
「あなたが言うと不安になるのよ」
ユウが初めて笑った。
「……面白い人ですね」
「よく言われる」
「褒めてないと思います」
「それもよく言われる」
五人は歩いた。
しかし。
その街のどこかでは。
新しい記録が始まっていた。
【正常命軌保持者】
【異常因子との接触】
【選択:同行】
【命軌変動:なし】
記録を見ていた人物が眉を寄せる。
「変わらない?」
隣にいた別の人物が答える。
「はい」
「異常因子と接触したのに?」
「はい」
「命軌は正常のまま?」
「はい」
沈黙。
やがて、その人物は記録を閉じた。
「……それなら問題は、異常因子ではない」
「では?」
「選択そのものだ」
その言葉と同時に。
別の画面が開く。
そこには、五人の名前。
そして、その下に一つの新しい項目があった。
【選択による命軌変動:観測開始】
⸻
昼。
五人は小さな公園にいた。
林夏はベンチに座り、パンを食べている。
ユウは隣に座っている。
「これ、食べる?」
林夏がパンを差し出す。
「いいんですか?」
「一個余った」
ユウは受け取った。
「ありがとうございます」
月白は少し離れた場所で二人を見ていた。
紅葉は木陰に立っている。
澪は端末を操作している。
「林夏」
月白が呼ぶ。
「何?」
「ユウくんの命軌、どうなってる?」
澪が答える。
「正常です」
「ずっと?」
「はい」
林夏はパンを食べながら言った。
「じゃあ、いいじゃん」
「何が?」
「正常なら」
月白は少し考える。
「でも、この街では正常なことが、必ずしも普通とは限らない」
林夏は笑った。
「それなら、それも本人が決めればいい」
ユウはパンを食べながら聞いていた。
そして、ふと口を開く。
「俺、自分の命軌を見てみたい」
澪が顔を上げる。
「見られます」
「本当?」
「ただし」
「ただし?」
「見るということは、知るということです」
ユウは黙った。
林夏は何も言わない。
月白も。
紅葉も。
誰も答えを教えなかった。
しばらくして。
ユウは言った。
「……見たい」
澪は端末を操作した。
画面に一つの線が表示される。
まっすぐ。
途切れることなく。
異常もない。
分岐もない。
そして、その先には。
一つの未来だけが表示されていた。
【二十七歳】
【命軌終了】
ユウは画面を見つめた。
誰も話さない。
風が吹いた。
木の葉が揺れる。
ユウはしばらく黙っていた。
そして。
「……俺、二十七歳で死ぬんだ」
林夏は答えなかった。
ユウも泣かなかった。
ただ、画面を見つめている。
やがて。
林夏が静かに言った。
「どうする?」
ユウは顔を上げた。
その質問には。
答えがなかった。
誰も答えを用意していなかった。
だからこそ。
ユウは初めて、自分自身で考え始めた。




