第二十章 五つ目の道
第零街区の外れには、道がなかった。
正確には、道だった場所がなかった。
四人が歩いているのは、建物と建物の間に残された細い空間だった。
舗装もされていない。
街灯もない。
標識もない。
ただ、前へ進めるだけの場所だった。
林夏は足元を見ながら歩いていた。
「これ、本当に道なのか?」
紅葉が後ろから答える。
「あなたが作ったんでしょう」
「俺が?」
「地図を破ったのはあなたよ」
「でも、道を作った覚えはない」
「じゃあ誰が作ったの?」
「……知らない」
紅葉はため息をついた。
「結局それなのね」
月白は二人の少し後ろを歩いていた。
何も言わずに、周囲を見ている。
建物の壁には窓がない。
扉もない。
ただ、古い壁だけがずっと続いている。
澪が突然立ち止まった。
「待ってください」
三人も止まった。
「どうした?」
林夏が振り返る。
澪は壁を見ていた。
「ここから先は、記録がありません」
「記録がない?」
「はい」
「今までもなかっただろ」
「違います」
澪は首を横に振った。
「今までは、記録が存在しないだけでした」
「どう違う?」
「ここから先は、記録できない」
林夏は壁に手を触れた。
冷たい。
普通の石だった。
「触っても何も起きないけど」
「それが問題です」
澪は壁に近づいた。
「この街のものなら、何らかの反応があるはずです」
「じゃあ、ここは街じゃない?」
月白が聞く。
「分かりません」
澪は少し考えた。
「もしかすると、街の外側です」
紅葉が周囲を見る。
「第零街区の外側?」
「はい」
「でも、昨日この街の中心にいたでしょう」
「中心と外側が、距離で決まっているとは限りません」
林夏は首を傾げた。
「難しい話になってきたな」
「つまり?」
「分からない」
「あなた、そればかりね」
「分からないことを分かったふりするよりいいだろ」
紅葉は何も言わなかった。
少しして、月白が小さく笑った。
「確かに」
「ほら」
「何が『ほら』なの?」
「月白が味方してくれた」
「味方したつもりはないけど」
「……」
林夏は少し考えた。
「じゃあ、今のは聞かなかったことにする」
「それでいいと思う」
月白が笑った。
四人は再び歩き始めた。
しばらくすると、道の先に小さな橋が見えてきた。
川がある。
しかし、水は流れていなかった。
鏡のように静かな水面。
その向こう側に、古い門が立っている。
門には文字が刻まれていた。
『ここから先、選択は記録されません。』
紅葉が立ち止まった。
「……それなら、ここから先に行けばいいじゃない」
林夏も門を見る。
「そうだな」
「観測者から逃げられるかもしれない」
「でも」
月白が言った。
「記録されないということは、誰にも守られないということでもあるかもしれない」
紅葉が黙った。
確かにそうだった。
第零街区では、少なくとも誰かが彼らを観測している。
危険でもある。
しかし同時に、何らかの仕組みが彼らの存在を認識している。
記録されない場所に入れば、それすらなくなる。
林夏は門の前まで歩いた。
「じゃあ、聞いてみよう」
「誰に?」
紅葉が聞く。
林夏は門に向かって声をかけた。
「ここ、危ない?」
返事はなかった。
「安全?」
返事はない。
「飯はある?」
紅葉が額を押さえた。
「最後の質問、必要?」
「重要だろ」
「重要じゃない」
すると。
門の向こう側から、風が吹いた。
冷たい風だった。
そして、林夏の足元に小さな紙が落ちてきた。
拾い上げる。
そこには一言だけ書かれていた。
『分かりません。』
林夏は笑った。
「正直だな」
澪が紙を見る。
「この返答は、これまでのものと違います」
「どうして?」
「今までの記録は、私たちに何かを選ばせようとしていました」
澪は紙を指差した。
「これは何も要求していない」
月白が門を見る。
「ただ、分からないと言っている」
林夏は少し考えた。
「じゃあ、行く?」
紅葉が聞く。
「本当に?」
「うん」
「危険かもしれない」
「そうかも」
「戻れないかもしれない」
「それもある」
「それでも?」
林夏は門を見た。
「行きたいなら行けばいい」
紅葉が眉を寄せる。
「あなたは?」
「俺は行く」
「理由は?」
林夏は少し考えた。
「誰にも決められてないから」
月白が静かに彼を見る。
林夏は続けた。
「行かない理由もないし」
それだけだった。
月白は一歩前へ出た。
「私も行く」
紅葉も続く。
「私も」
澪は最後に門へ近づいた。
「私も行きます」
四人が同時に門をくぐった。
その瞬間。
第零街区の時計が止まった。
音が消える。
風も止まる。
そして、四人の足元にあった白い線が、一本ずつ消えていった。
紅葉が振り返る。
「……戻れない?」
後ろには、門しかない。
けれど門の向こう側には、もう街が見えなかった。
ただ、白い霧が広がっている。
月白が少し不安そうにする。
林夏は彼女を見る。
「大丈夫?」
「……うん」
「本当に?」
「うん」
月白は少しだけ考えた。
「ただ……」
「何?」
「こういうとき、昔なら白澤に聞いていたと思う」
林夏は何も言わなかった。
月白は自分で続けた。
「どうすればいいのかって」
「今は?」
「今は……」
彼女は前を見る。
「自分で考えたい」
林夏は笑った。
「じゃあ、考えながら歩こう」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
紅葉は少し後ろからそれを見ていた。
「……本当に変わったわね」
澪が隣に来る。
「誰が?」
「月白」
「そうですか?」
「前なら、もっと誰かに答えを求めていた」
澪はしばらく月白を見た。
「でも今は違います」
「ええ」
紅葉は小さく笑った。
「それが、少し羨ましい」
澪が彼女を見る。
「紅葉も選べばいい」
「簡単に言うわね」
「林夏と同じことを言いました」
「……あいつの影響を受けないで」
二人は静かに笑った。
霧の向こうに、何かが見え始めた。
建物だった。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、街全体が姿を現す。
しかし、それは第零街区とは違っていた。
人がいる。
店がある。
車が走っている。
誰もが普通に生活している。
まるで、何事もなかったかのように。
林夏が立ち止まった。
「……人がいる」
月白も驚いている。
「ここは……」
澪が周囲を見回す。
「記録されていない街です」
紅葉が警戒する。
「普通すぎる」
林夏は少し笑った。
「じゃあ、飯もあるかな」
「それしか考えてないの?」
「重要だろ」
四人が街へ足を踏み入れる。
その瞬間。
誰かが林夏の肩にぶつかった。
「すみません」
林夏は振り返った。
「いえ、大丈夫です」
通り過ぎていく男。
普通の人間だった。
少なくとも、そう見えた。
林夏は少し安心した。
けれど。
その男が角を曲がった瞬間。
背中に、一瞬だけ白い文字が浮かんだ。
【観測対象:未登録】
そして、その文字はすぐに消えた。
四人の誰も気づかなかった。
ただ、街のどこか。
高い建物の屋上から、誰かが四人を見ていた。
その人物は、手にした記録板を閉じる。
「第零街区の外へ出た」
隣にいた別の人物が尋ねる。
「追跡しますか?」
「必要ない」
「なぜ?」
「彼らは、もう観測されている」
「誰に?」
その人物は答えなかった。
ただ、遠くにいる林夏たちを見つめた。
そして、小さく呟く。
「第五の選択をした者は、もう第零街区だけの問題ではない」
風が吹いた。
記録板の最後のページが開く。
そこには、新しい名前が一つだけ記されていた。
【林夏】
その名前の横には、これまで存在しなかった項目があった。
【命軌:未定義】
【観測:継続】
【選択:未確定】
そして最後に。
【共同因果:拡張】
その文字だけが、静かに光っていた。




