第十九章 道のない場所
第十九章 道のない場所
第零街区には、地図がなかった。
少なくとも、林夏たちが知っている範囲では。
四人は朝食を終え、再び街を歩いていた。
どこへ向かうのかは、まだ決まっていない。
それでも、昨日までとは少し違っていた。
誰かに追われているわけでもない。
命軌を修正されているわけでもない。
ただ、自分たちで歩いている。
林夏は前を向いたまま、ふと立ち止まった。
「……なあ」
「何?」
紅葉が振り返る。
「俺たち、同じところを歩いてない?」
「分からないわ」
「分からないの?」
「第零街区に来たのは初めてなんだから、分かるわけないでしょう」
「それもそうか」
林夏は後ろを振り返った。
そこには、さっき通ったはずの道がある。
けれど、道の先には見覚えのない建物が立っていた。
「……あれ?」
月白も振り返る。
「どうしたの?」
「さっき、あんな建物あった?」
「なかったと思う」
澪が静かに答えた。
「建物が変わった?」
「その可能性があります」
「街が動いてるってこと?」
「正確には、私たちの認識に合わせて街の構造が変化しているのかもしれません」
紅葉が眉を寄せた。
「それ、もっと分かりやすく言えない?」
「歩いているから、道が変わる」
「……最初からそう言って」
林夏は笑った。
「じゃあ、迷子ってことだな」
「笑ってる場合?」
「迷子になったなら、飯を食えばいい」
「それは解決になってないでしょう」
「腹が減ってると考え事ができない」
「あなたの場合、腹が減ってなくても大して考えてないじゃない」
「ひどいな」
月白が小さく笑った。
「でも、林夏らしいと思う」
「ほら」
林夏は紅葉を見る。
「月白は分かってくれてる」
「そういう意味じゃないと思うけど」
紅葉は呆れたように言った。
そのときだった。
道の先に、一軒の古い建物が見えた。
小さな本屋だった。
看板には、かすれた文字でこう書かれている。
『帰処』
林夏は足を止めた。
「本屋……?」
なぜか、胸の奥が少しだけざわついた。
初めて見る店だった。
それなのに、完全に知らない場所という感じがしない。
月白が林夏を見る。
「入ってみる?」
「うん」
紅葉がすぐに止めた。
「待って」
「何?」
「昨日から、この街で何回『入ってみる』をやってると思ってるの?」
「……三回くらい?」
「数えてないのね」
「数える必要ある?」
「あるでしょう」
澪が店を見た。
「危険の兆候はありません」
「それならいいじゃない」
林夏は扉に手をかけた。
紅葉がため息をつく。
「本当に警戒心がないわね」
「あるよ」
「どこに?」
「入る前にちゃんと考えた」
「何を?」
「入るかどうか」
紅葉は何も言えなくなった。
扉が開く。
鈴が鳴った。
――チリン。
店内には誰もいなかった。
棚には大量の本が並んでいる。
しかし、不思議なことに、どの本にも題名がない。
林夏が一冊を手に取った。
表紙には何も書かれていない。
開く。
最初のページには、一行だけ文字があった。
『選ばれなかった人生は、誰のものなのか。』
林夏は黙った。
月白が隣から覗き込む。
「……それ、私たちに向けた言葉かな」
「分からない」
林夏はページをめくった。
次のページ。
『誰かに決められた人生は、自分のものなのか。』
さらにめくる。
何もない。
月白は本を受け取った。
しばらく、その文章を見つめていた。
「……命軌のことを言ってるのかもしれない」
「そうかもな」
紅葉が別の本を手に取った。
そこにはこう書かれていた。
『もし、運命が存在しなかったら、あなたは誰になるのか。』
紅葉は眉を寄せた。
「……嫌な質問ね」
「なんで?」
林夏が聞く。
「答えがないからよ」
「じゃあ、今から決めればいい」
「簡単に言うわね」
「だって、今ここにいるだろ」
紅葉は林夏を見る。
「……本当に、あなたはそういうところだけ妙に真っ直ぐね」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「そっか」
林夏は笑った。
そのとき、店の奥で音がした。
カタン。
四人が同時に振り向く。
誰もいない。
カウンターの上に、一枚の紙だけが置かれていた。
林夏が近づく。
紙には街の簡単な地図が描かれている。
東。
西。
南。
北。
四つの出口。
その下に文字があった。
『第零街区から出るためには、いずれか一つを選択してください。』
紅葉が地図を覗き込んだ。
「……また選択?」
「この街、選択が好きだな」
林夏が言う。
澪は地図を見つめた。
「少し変です」
「何が?」
「私たちは、ここへ来るまで四つの方向のどれにも進んでいません」
「……そういえば」
月白が頷いた。
「この街には、最初から出口があったの?」
「分かりません」
澪は首を横に振った。
「ただ、この地図には私たちが歩いてきた道がありません」
林夏は地図を見た。
確かにそうだった。
今いる本屋も書かれていない。
昨日泊まった場所も。
食堂も。
昨日見た巨大な時計も。
地図にあるのは、四つの出口だけ。
「つまり……」
紅葉が言った。
「この地図は、この街の地図じゃない」
澪が答える。
「おそらく」
「じゃあ、何の地図?」
誰も答えなかった。
林夏は紙を裏返した。
何もない。
そして、その瞬間。
紙の中央に文字が浮かび上がった。
『あなたたちは、どこへ行きたい?』
月白が黙った。
林夏も黙った。
紅葉は腕を組む。
澪は紙を見つめている。
しばらくして、林夏が言った。
「俺は、みんなと一緒に行きたい」
紅葉が顔を上げる。
「それ、選択じゃないでしょう」
「そう?」
「自分の行きたい場所を言ってない」
「じゃあ……」
林夏は少し考えた。
「飯があるところ」
紅葉が額を押さえた。
「あなたは本当に……」
月白は笑った。
「私は……」
彼女は言葉を止めた。
以前なら、答えは決まっていた。
帰る場所。
命軌に従った場所。
白澤が用意した場所。
けれど今は違う。
「まだ、分からない」
月白は正直に言った。
「どこへ行きたいのかは、まだ分からない」
林夏は頷いた。
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「いいの?」
「分からないなら、歩きながら考えればいい」
月白は少しだけ笑った。
「……うん」
紅葉は地図を見る。
「私は東」
「理由は?」
「なんとなく」
「昨日もそれだったな」
「悪い?」
「いや」
林夏は笑う。
「それも選択だろ」
澪はしばらく地図を見つめていた。
そして、静かに言った。
「私は西です」
紅葉が振り向く。
「西?」
「はい」
「そこ、私たちが来た方向じゃない?」
「だからです」
「どういう意味?」
「私たちが来た道は、地図にありません」
澪は四つの出口を指差した。
「つまり、この地図は私たちが歩いた場所を記録していない」
「……」
「この街が用意した出口だけを記録している」
月白が小さく息を呑んだ。
「それなら……」
「ええ」
澪が頷く。
「この四つの選択肢も、この街が用意したものかもしれません」
店内が静かになった。
林夏は地図を見つめた。
四つの道。
東。
西。
南。
北。
どれを選んでも「選択」にはなる。
けれど、それを最初から誰かが用意していたなら。
それは本当に自分たちの選択なのか。
林夏は突然、地図を二つに裂いた。
ビリッ。
紅葉が目を見開く。
「ちょっと!」
林夏はさらに裂いた。
四つ。
八つ。
紙は細かく破られていく。
「何してるの?」
月白が聞く。
「分からない」
「分からないのに?」
「うん」
林夏は最後の一枚を机の上に置いた。
「でも、四つしかないなら、五つ目を作ればいい」
紅葉は呆れた顔をした。
「道を?」
「うん」
「そんなもの、どこにあるのよ」
「知らない」
「……」
「だから探す」
澪が破られた地図を見る。
そのときだった。
机の上の紙片の一枚に、文字が浮かび上がった。
『第五の選択』
四人が息を止めた。
続いて、もう一行。
『未定義』
月白の表情が変わった。
「……林夏」
「うん」
「これ、あなたと同じ……」
「未定義」
林夏はその文字を見つめた。
以前から何度も見てきた言葉だった。
命軌に存在しない。
観測できない。
修正できない。
そんな彼の異常性を示す言葉。
しかし今回は違う。
自分ではない。
「第五の選択そのものが、未定義なんだ」
澪が呟いた。
その瞬間。
店の奥から、声が聞こえた。
「そういうことです」
四人が振り向く。
誰もいない。
けれど、声は続いた。
「だから、まだ誰も選んでいません」
紅葉が構える。
「誰?」
返事はない。
ただ、壁に新しい文字が浮かんだ。
【選択は、用意されたものから選ぶ必要はない】
林夏はその文字を見た。
そして、少し笑った。
「……だったら、面白いな」
月白が彼を見る。
「何が?」
「この街が、本当に俺たちの選択を見てるなら」
林夏は店の外を指差した。
「まだ誰も歩いてない道を探してみよう」
紅葉がため息をつく。
「また勝手なことを……」
しかし、彼女は林夏の後ろを歩き始めた。
月白も続く。
澪も最後に扉を閉めた。
四人は、地図にない方向へ歩き始めた。
誰も知らない。
そこに道があるのか。
出口があるのか。
それとも、何もないのか。
ただ一つだけ確かなことがあった。
今度は、誰かが用意した四つの選択肢から選んだのではない。
自分たちで、五つ目を探している。
本屋の中。
誰もいないカウンターの上で、破られた地図が静かに震えた。
そして、その紙片に新しい記録が浮かび上がる。
【第一回 選択記録】
【四名】
【共同因果:継続】
【第五の選択:発生】
しばらくして、最後の一行が追加された。
【予測:不能】
さらに、その下。
誰かの手によって、別の言葉が書き足された。
【観測を継続する】
本屋の外では、四人の足音が遠ざかっていく。
第零街区の時計は、まだ動いていた。
しかし、その針が示している時間を、誰も知らなかった。




