第154章 誰かを待たない日
翌朝。
月白はいつもより少し早く家を出た。
万事修理店へ向かう途中、駅前の時計を見る。
まだ時間がある。
いつもなら、そのまま店へ向かう。
けれど今日は、少し寄り道をした。
駅の近くにある小さな本屋だった。
店内を歩く。
料理の本。
旅行の本。
小説。
雑誌。
月白は一冊の本を手に取った。
表紙には、知らない町の写真が載っている。
ページをめくる。
海。
山。
小さな喫茶店。
知らない駅。
「……ここ」
小さな写真に目が止まった。
海沿いの古い灯台。
月白はしばらく眺めていた。
買おうか迷う。
けれど、今日は買わなかった。
本を棚に戻す。
そして店を出る。
林夏の店へ向かった。
「おはようございます」
「おはよう」
林夏は工具を整理していた。
「今日は少し遅かったな」
「本屋に寄っていました」
「何か買った?」
「買いませんでした」
「珍しい」
「欲しいと思ったんですけど」
「じゃあ、なんで?」
月白は少し考える。
「今日は買わないことにしました」
「なるほど」
林夏はそれ以上聞かなかった。
月白は店の中へ入る。
棚の上を見る。
真鍮の鍵。
今日もそこにある。
「鍵も、今日はそのままです」
「うん」
午前中。
一人の客が来た。
古い旅行鞄だった。
「昔、妻と使っていたものなんです」
鞄の金具が壊れている。
林夏が確認する。
「直せます」
「お願いします」
客が帰る。
月白は鞄を見る。
「二人で使っていたものなんですね」
「うん」
「今も一緒に旅行するんでしょうか」
林夏は少し考える。
「聞かなかったな」
「そうですね」
しばらくして。
月白が言った。
「聞かなくてもいいこともありますね」
「うん」
「知りたいことと、聞くことは同じじゃない」
林夏は少し笑った。
「今日は難しいな」
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
昼。
月白は朝の本屋のことを話した。
「灯台の写真を見つけました」
「行きたい?」
「少し」
「じゃあ、行く?」
月白はすぐには答えなかった。
「……今日は決めません」
「いいよ」
「いつか行きたいと思ったら」
「その時に行けばいい」
月白は頷いた。
「林夏は、行きたい場所がありますか?」
「ある」
「どこですか?」
「市場」
「また食べ物ですか?」
「市場には食べ物以外もある」
「でも、最初に見るのは食べ物ですよね」
「たぶん」
月白は笑った。
「では、次は私が行きたい場所を決めます」
「うん」
「その次は林夏」
「分かった」
午後。
旅行鞄の修理が終わった。
客が戻ってくる。
鞄を受け取ると、しばらく眺めていた。
「これなら、まだ使えますね」
「はい」
男性は少し笑った。
「妻に見せてみます」
林夏は頷いた。
客が帰っていく。
月白はその背中を見送った。
「まだ使える」
「うん」
「その一言だけで、少し嬉しそうでした」
「大切なものなんだろ」
「そうですね」
夕方。
月白は棚の上の鍵を見る。
「今日は、誰も鍵を探しませんでした」
「そうだな」
「それでも一日は終わります」
「うん」
「少し不思議です」
「何が?」
「以前は、答えを見つけないと前に進めないと思っていました」
林夏は工具を片付けながら言う。
「答えがなくても歩けるだろ」
「はい」
月白は少し笑った。
「林夏は、簡単に言いますね」
「難しく考えてるだけかもしれない」
「それも林夏らしいです」
店を閉める。
二人で駅へ向かう。
今日は少しだけ遠回りをする。
月白が言った。
「林夏」
「ん?」
「明日、本屋にもう一度行ってもいいですか?」
「もちろん」
「灯台の本を見たいです」
「買う?」
「まだ分かりません」
「それでいい」
駅に着く。
月白が言う。
「また明日」
「うん」
電車が来る。
月白は乗り込む。
窓の外を見る。
林夏が小さく手を振っている。
月白も手を振る。
夜。
月白はノートを開く。
――今日は本屋に行った。
――灯台の写真を見つけた。
――買わなかった。
――でも、もう一度見たいと思った。
少し考える。
――欲しいと思ったものを、すぐに手に入れなくてもいい。
そして。
――明日、もう一度考える。
端末が光る。
【接触:継続】
【予定:再設定】
【本人による保留:継続】
【関係:継続】
【未来:未確定】
月白は端末を閉じた。
明日。
もう一度、本を見る。
買うかもしれない。
買わないかもしれない。
行きたいと思うだけかもしれない。
それでも。
「もう一度見たい」と思った。
それだけで、明日へ向かう理由には十分だった。




