第153章 鍵を探さない日
翌朝。
月白が万事修理店に着くと、林夏は店の前を掃いていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は早いですね」
「昨日、月白が明日も会いたいって書いてたから」
月白は少し驚いた。
「……見たんですか?」
「見てない」
「では、どうして?」
「なんとなく」
「それは、少しずるいです」
「何が?」
「私が何を考えているか分かっているみたいで」
林夏は笑った。
「分かってないよ」
「本当ですか?」
「本当」
月白は少し考えてから、笑った。
店に入る。
棚の上には、真鍮の鍵。
月白はそれを見る。
今日は手に取らなかった。
「今日は?」
林夏が聞く。
「探しません」
「何を?」
「鍵のことを」
林夏は頷いた。
「分かった」
午前中。
店には珍しく客が来なかった。
林夏は修理道具を整理している。
月白は本を読んでいる。
時間だけがゆっくり過ぎていく。
やがて月白が本を閉じた。
「林夏」
「ん?」
「鍵って、探さなくてもいいんでしょうか」
「もちろん」
「いつか、何かを開けるかもしれません」
「うん」
「でも、今は何も開ける必要がありません」
林夏は笑った。
「じゃあ、探さなくていい」
「はい」
月白は鍵を見る。
昨日までなら、何か意味があるのではないかと思っていた。
けれど今日は。
ただそこにある古い鍵として見ていた。
昼。
林夏が冷蔵庫を開ける。
「何食べる?」
「今日は何がありますか?」
「卵」
「またですか?」
「昨日の残り」
「では、卵料理ですね」
「卵以外もあるぞ」
「でも、昨日の卵焼きが美味しかったので」
「じゃあ作るか」
林夏は卵を取り出した。
月白が隣に立つ。
「今日は私が巻きます」
「大丈夫?」
「昨日より上手くできます」
「自信あるな」
卵を焼く。
一度目。
少し崩れる。
二度目。
さらに崩れる。
三度目。
ようやく形になった。
月白は満足そうに笑った。
「できました」
「うん」
「どうですか?」
「卵焼き」
「見れば分かります」
林夏は一口食べる。
「美味しい」
「本当ですか?」
「うん」
月白も食べる。
「……昨日より美味しいです」
「自分で作ったから?」
「それもあります」
「じゃあ、成功」
二人で昼食を食べる。
食べ終わった後。
月白が言った。
「今度は、林夏が作らなくても大丈夫ですね」
「そうだな」
「でも」
「ん?」
「また作ってください」
「どっちだよ」
「両方です」
林夏は笑った。
午後。
一人の女性が店に来た。
古い手紙を持っている。
「封筒が破れてしまって」
林夏が確認する。
「中身は大丈夫そうです」
「はい」
女性は手紙を見つめる。
「昔の友人からもらったものなんです」
「大切な手紙ですか?」
「そうですね」
少し間を置いて。
「でも、もう会っていません」
月白は黙っていた。
林夏は手紙を丁寧に補修する。
「これで大丈夫です」
女性は手紙を受け取った。
「ありがとうございました」
帰ろうとしたところで、振り返る。
「これを持っていると、また会いたくなるかもしれません」
林夏は答えなかった。
女性は少し笑って店を出た。
月白はその背中を見送る。
「また会いたくなったら、会いに行けばいいんでしょうか」
林夏は少し考える。
「相手にも都合があるけどな」
「そうですね」
「会いたいと思うことと、会いに行くことは別だから」
月白は頷いた。
「でも、会いたいと思うこと自体は」
「誰にも止められない」
「はい」
夕方。
店を閉める。
月白は棚の上の鍵を見る。
「今日は、本当に何もしませんでしたね」
「卵焼き作っただろ」
「それはしました」
「じゃあ、十分」
月白は鍵を見ながら言う。
「この鍵も、今日は何もしませんでした」
「鍵だからな」
「いつか何かを開けるかもしれません」
「その時は、その時」
「はい」
二人は店を出る。
駅へ向かう。
今日は少し寒い。
月白が両手をポケットに入れる。
林夏は歩く速度を少し落とした。
「寒い?」
「少し」
「じゃあ、早く帰ろう」
「はい」
駅に着く。
電車を待つ。
月白が言う。
「林夏」
「ん?」
「私、最近、未来のことを考える時に」
「うん」
「何が起こるかではなくて、何をしたいかを考えるようになりました」
林夏は少し笑った。
「それなら、いいんじゃない?」
「はい」
「でも、何をしたいか分からない日もある」
「あります」
「その時は?」
月白は少し考える。
「何もしない」
「正解」
「林夏の影響です」
「それは責任重大だな」
二人で笑う。
電車が来る。
月白が乗り込む。
「また明日」
「うん。また明日」
扉が閉まる。
月白は窓越しに手を振った。
夜。
月白はノートを開く。
――今日は鍵を探さなかった。
――何も分からなかった。
――でも、何も問題はなかった。
少し考える。
――分からないものを、必ず理解しなければならないわけではない。
そして。
――いつか知りたくなったら、その時に探せばいい。
最後に。
――今日は卵焼きを自分で作った。
月白は少し笑った。
端末が光る。
【未解決事項:継続】
【本人による保留:成立】
【関係:継続】
【選択:日々更新】
【予測:不要】
月白は画面を閉じた。
机の上の青いガラス瓶を見る。
そして思う。
未来には、まだ分からないことがたくさんある。
けれど。
分からないままでも、今日を過ごすことはできる。
そのことを知っただけで。
少しだけ、明日が近くなった気がした。




