第148章 名前をつけない理由
翌朝。
林夏は店の奥で、昨日の写真立てを磨いていた。
修理した枠には、細かな傷がいくつか残っている。
新品には戻らない。
けれど、壊れていた部分はもうない。
月白はその様子を見ていた。
「新品にはならないんですね」
「うん」
「それでも、使える」
「そういうものもある」
月白は頷いた。
「人も同じでしょうか」
「どうだろう」
林夏は少し考える。
「人は物じゃないから、修理できないと思う」
「そうですね」
「でも、自分で変わることはできるんじゃない?」
月白はその言葉を聞いていた。
「自分で?」
「うん」
「誰かに変えてもらうんじゃなくて」
「そう」
月白は少し笑った。
「それなら、安心します」
午前中。
月白は店の棚を整理していた。
古い時計。
壊れたラジオ。
使い込まれたカメラ。
そして、真鍮の鍵。
「この鍵、ここに置いてもいいですか?」
「いいよ」
月白は鍵を小さな皿に置いた。
店の中に、ひっそりと置かれる。
「ここなら、なくさないですね」
「うん」
「でも、誰かが持っていったら?」
「その時は、その人が必要だったんじゃない?」
月白は笑った。
「林夏は本当に適当ですね」
「よく言われる」
昼。
二人で店の近くの食堂へ行った。
月白はメニューを見ている。
林夏はすでに注文を決めている。
「ラーメン」
「早いですね」
「いつものこと」
「今日は私も同じにします」
「珍しい」
「たまには」
料理が届く。
二人で食べる。
月白は少しだけ林夏を見る。
「昨日の話」
「うん」
「まだ考えています」
「何を?」
「私たちの関係」
林夏は箸を止めた。
「名前をつける必要、ありますか?」
月白が聞く。
林夏は少し考えた。
「今はないと思う」
「どうして?」
「名前をつけたら、守らなきゃいけないものが増えそうだから」
「守る?」
「恋人ならこうしなきゃいけない、とか」
月白は静かに頷いた。
「なるほど」
「でも、名前がなくても」
林夏は月白を見る。
「大切にすることはできる」
月白は少し驚いた。
そして、目を伏せる。
「……そうですね」
二人は再び食事を続けた。
午後。
店に一人の女性が訪れた。
手には古い指輪がある。
「これを直したいんです」
林夏が受け取る。
「傷が深いですね」
「はい」
女性は少し迷ってから言った。
「昔、好きだった人にもらいました」
月白は黙って聞いている。
「今でも好きなんですか?」
林夏は聞かなかった。
女性自身が答える。
「分かりません」
林夏は頷いた。
「指輪だけなら直せます」
「関係は?」
女性が苦笑する。
「それは、自分で決めるしかないですね」
「はい」
女性は指輪を置いて帰った。
月白はしばらく黙っていた。
「今日、同じような話が続きますね」
「そうだな」
「名前をつけない関係」
「うん」
「分からない気持ち」
「うん」
月白は店の窓から外を見る。
「でも」
「ん?」
「分からないからこそ、自分で考えるしかないんですね」
林夏は笑った。
「そういうことじゃない?」
夕方。
指輪の修理が終わる。
女性が受け取りに来る。
「ありがとうございました」
指輪を受け取った女性は、すぐには指にはめなかった。
しばらく眺めてから、財布の中へしまう。
「今日は、これでいいです」
林夏は頷いた。
女性が帰る。
月白はその背中を見送った。
「指にはめなかったですね」
「うん」
「でも、捨てなかった」
「そうだな」
「人の気持ちは、そういうものなのかもしれません」
「分からないけど」
「はい」
月白は笑った。
「私も、まだ分かりません」
夜。
店を閉める。
月白は棚の上の真鍮の鍵を見る。
「明日もここに置いておいていいですか?」
「もちろん」
「持ち歩かないんですか?」
「今日はいいです」
「どうして?」
「ここに置いておくことを選びました」
林夏は頷いた。
「じゃあ、明日は?」
「明日、持ちたくなったら持ちます」
「それでいい」
二人で店を出る。
駅へ向かう。
途中で月白が立ち止まった。
「林夏」
「ん?」
「昨日、名前をつけない話をしましたよね」
「うん」
「私は、名前をつけたくないわけではありません」
林夏は黙って聞く。
「いつか、自然に名前が必要になったら、その時に決めたいです」
「俺も」
「それまでは」
月白は少しだけ笑った。
「今のままでいたいです」
「分かった」
駅に着く。
電車を待つ。
今日は少しだけ距離が近い。
月白の手が、林夏の手のすぐそばにある。
けれど、触れない。
電車が来る。
二人は乗り込む。
別々の席に座った。
月白は窓の外を見る。
林夏も反対側の窓を見ている。
何も話さない。
それでも。
同じ電車に乗っている。
そのことだけで、少し安心した。
夜。
月白はノートを開いた。
――今日、名前をつけない理由を話した。
――名前がないから、不安なのではない。
――名前をつける前の時間も、大切だから。
少し考えてから。
――いつか名前が必要になるかもしれない。
――でも、それは今日ではない。
端末が光る。
【関係:未定義】
【感情:継続】
【本人による選択:確認】
【固定:なし】
【命名:保留】
【未来:未確定】
月白はその表示を見た。
そして、静かに笑った。
「保留でいいです」
端末を閉じる。
明日も。
自分で決めればいい。




