第143章 朝の市場
土曜日。
まだ空が明るくなりきる前に、月白は駅へ向かっていた。
少し眠い。
けれど、足取りは軽かった。
駅に着く。
林夏は、すでに来ていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「眠そう」
「林夏もです」
「俺はいつもこんな感じ」
「それは自慢することではないと思います」
「そうかな」
二人は笑った。
始発に近い電車に乗る。
車内には人が少ない。
月白は窓の外を見ていた。
空が少しずつ明るくなっていく。
「朝って、こんなに静かなんですね」
「普段は寝てるからな」
「私もです」
「今日は特別だな」
「はい」
しばらくして、目的の駅に着いた。
駅を出る。
遠くから、人の声が聞こえてくる。
市場だった。
野菜。
魚。
パン。
果物。
手作りの菓子。
小さな屋台。
林夏の目が輝く。
月白はそれを見て笑った。
「楽しそうですね」
「すごい」
「何が一番食べたいですか?」
「全部」
「全部は無理です」
「じゃあ、できるだけ」
二人は市場を歩いた。
林夏は焼き魚を見つけた。
「これ」
「朝から魚ですか?」
「朝だから魚」
「理由になっていません」
次に団子を買う。
その後、焼きたてのパン。
さらに小さなコロッケ。
月白は紙袋を抱えていた。
「……食べすぎでは?」
「まだ昼じゃない」
「昼までにこれだけ食べるんですか?」
「市場だから仕方ない」
「市場のせいにしています」
月白は笑った。
二人でベンチに座る。
林夏が団子を渡す。
「はい」
「ありがとうございます」
月白は一口食べた。
「甘いですね」
「うまい」
「はい」
朝の市場は少しずつ人が増えていた。
家族連れ。
老人。
若い夫婦。
一人で来ている人。
それぞれが、それぞれの買い物をしている。
月白はその光景を眺めていた。
「どうした?」
「何でもありません」
「また考えてる?」
「少しだけ」
「何を?」
月白は市場の人々を見た。
「ここにいる人たちは、誰も同じ一日を過ごしていないんだなと思って」
「そりゃそうだろ」
「でも、みんな普通に歩いています」
「うん」
「未来がどうなるかなんて、誰も分からないのに」
林夏は団子を食べながら言った。
「分からないから、朝飯を食うんじゃない?」
月白は笑った。
「それは林夏だけでは?」
「たぶん」
二人はまた笑った。
市場の奥に、小さな古道具店があった。
月白が立ち止まる。
店先に、古い木箱が置かれている。
中には古い鍵がいくつも入っていた。
「鍵?」
「うん」
月白は一つ手に取った。
古い真鍮の鍵だった。
「何の鍵でしょう」
「分からない」
「分からないのに売っているんですね」
「古道具ってそういうものじゃない?」
月白は鍵を見つめた。
「……買おうかな」
「使えないかもしれないぞ」
「はい」
「それでも?」
月白は頷いた。
「何の鍵か分からないから、少し気になります」
林夏は何も言わずに笑った。
月白は鍵を買った。
店を出る。
「何に使う?」
「分かりません」
「じゃあ、使い道が決まるまで持っておけばいい」
「そうします」
市場を出る頃には、太陽が高くなっていた。
二人は駅へ向かう。
月白は鍵をポケットに入れた。
「今日は楽しかったです」
「俺も」
「次は?」
林夏が聞いた。
月白は少し考えた。
「次は……」
そこで止まる。
「まだ決めません」
「お」
「林夏の次の提案を待つ必要もないですよね」
「もちろん」
「私が行きたいと思ったら、その時に誘います」
「うん」
月白は笑った。
「では、今日はこれで」
駅のホーム。
電車を待つ。
月白はスマートフォンを取り出した。
予定表には、今日の記録。
【朝市】
【提案者:林夏】
【参加:月白】
その下に新しく書く。
【古い鍵を買った】
少し考える。
そして。
【何の鍵かは、まだ分からない】
保存する。
端末が光る。
【今日の選択:本人による参加】
【予定:成立】
【予定外の選択:発生】
【関係:継続】
月白は画面を閉じた。
「林夏」
「ん?」
「この鍵」
「うん」
「いつか、何かの役に立つと思いますか?」
林夏は鍵を見る。
「分からない」
「ですよね」
「でも」
「はい?」
「分からないまま持ってるのも、悪くないと思う」
月白は少し笑った。
「はい」
電車が来る。
二人は乗り込んだ。
窓の外を朝の市場が遠ざかっていく。
月白はポケットの中の鍵に触れた。
まだ、何の鍵なのか分からない。
それでよかった。
すぐに答えを決めなくてもいい。
今日分からないものは。
今日のままでもいい。
【予定外の選択:確認】
【予測:対象なし】
【観測:継続】
【未来:未確定】




