第十四章 逃げる場所があるということ
鍋の中で、湯が小さく揺れていた。
林夏は椀を四つ並べた。
「はい」
一つ。
「はい」
二つ。
「はい」
三つ。
そして最後の一つを、澪の前に置いた。
「どうぞ」
澪は椀を見つめた。
「……私の分?」
「そう」
「お金は?」
「いらない」
「どうして?」
「今は客じゃないから」
澪が首を傾げる。
「じゃあ、何?」
「分からない」
林夏は箸を渡した。
「でも、飯を食う人間には飯を出す」
澪はしばらく箸を見ていた。
それから。
「……いただきます」
小さな声で言った。
三人も続く。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
湯気が、狭い店の中に広がった。
外では。
足音が近づいている。
けれど。
今だけは誰も気にしなかった。
「……おいしい」
澪が呟いた。
「だろ?」
林夏が笑う。
「普通の麺だけど」
「普通だから、いい」
月白が言った。
紅葉も一口食べる。
「……悪くない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「もっと素直に言えばいいのに」
「調子に乗るから嫌」
「なるほど」
林夏は頷いた。
「じゃあ、聞かなかったことにする」
澪は三人を見た。
不思議だった。
自分が今までいた場所には。
こういう会話はなかった。
食事は必要な栄養を取るためのもの。
会話は必要な情報を交換するためのもの。
行動には、すべて理由があった。
けれど。
ここには。
理由のない笑いがあった。
澪は箸を止めた。
「……ねえ」
「ん?」
林夏が顔を上げる。
「あなたたちは、怖くないの?」
「怖いよ」
林夏は即答した。
「え?」
「普通に怖い」
「……」
「追われてるし、店は壊されるし、変な機械には襲われるし」
「なら、どうして笑えるの?」
林夏は少し考えた。
「笑ったほうが、ちょっと楽だから」
澪は黙った。
紅葉が口を挟む。
「この人の場合、それだけじゃない」
「何が?」
「たぶん、怖いことを怖いまま受け入れてる」
林夏が紅葉を見る。
「俺、そんな難しいこと考えてないけど」
「でしょうね」
月白が小さく笑った。
そのとき。
――ドン。
店の外で、大きな音がした。
全員の表情が変わった。
林夏が箸を置く。
「来たな」
紅葉が立ち上がる。
「数は?」
月白が目を閉じる。
「……多い」
澪の顔が青くなる。
「十……二十……」
端末を確認する。
「もっといる」
林夏が店の入口を見る。
「じゃあ、逃げよう」
「戦わないの?」
澪が聞く。
「戦って勝てるならいいけど」
林夏は店の奥へ歩いた。
「数が多いときは逃げる」
「……」
「修理屋だから、戦い方は専門じゃない」
紅葉が笑った。
「ようやく自覚した?」
「最初から」
林夏は床板を一枚外した。
その下に、狭い地下通路が現れる。
月白が驚く。
「こんなのあったの?」
「昔の倉庫」
「知らなかった」
「俺も忘れてた」
「……」
紅葉が呆れた。
「自分の店でしょう」
「古いから」
林夏は先に降りる。
「ほら、早く」
三人も続いた。
最後に澪が降りようとしたとき。
外から声が聞こえた。
『第四の異常因子を確認』
『対象は万事修理店内に存在』
『全員、修正対象として処理する』
澪の足が止まった。
林夏が振り返る。
「澪?」
「……私が出れば」
「駄目」
月白が言った。
「でも、あなたたちは私のせいで――」
「私もそうだった」
月白は静かに言った。
「私がいるせいで、林夏も紅葉も追われるようになった」
紅葉が続ける。
「私も同じ」
「……」
「でも」
紅葉は澪を見る。
「それで、誰か一人を置いていく理由にはならない」
澪は何も言えなかった。
林夏が手を伸ばす。
「来る?」
澪はその手を見る。
少し迷って。
自分から、その手を取った。
「……うん」
地下通路の奥へ走る。
その直後。
万事修理店の入口が吹き飛んだ。
白い修正執行体が店内へ入ってくる。
しかし。
彼らは誰もいない店を見て、動きを止めた。
『対象消失』
『命軌反応、なし』
『再検索――』
その瞬間。
一体の修正執行体の頭部に、黒い線が走った。
動作が停止する。
『……』
次の瞬間。
別の声が響いた。
『命軌情報に矛盾』
『対象は存在する』
『対象は存在しない』
『対象は――』
機械の身体が震えた。
そして。
自らの胸部を貫いた。
――ガンッ。
そのまま動かなくなった。
地下通路。
林夏たちは、その音を聞いていた。
「今の音……」
紅葉が振り返る。
「知らない」
月白が言う。
澪だけが。
青ざめた顔で端末を見ていた。
画面には、一つの文字だけが表示されている。
――欠損。
「どうした?」
林夏が聞く。
澪は答えない。
もう一度、画面を見る。
表示が変わった。
――命軌欠損。
――修正不能。
――観測不能。
――削除不能。
澪の指が震えた。
「……私」
「うん」
「私は、何なの?」
林夏はすぐには答えなかった。
月白も。
紅葉も。
答えられなかった。
やがて林夏が言う。
「分からない」
澪は俯く。
「……そうだよね」
「でも」
林夏は続けた。
「分からないなら、これから分かっていけばいい」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃないよ」
林夏は笑った。
「だから、三人……いや、四人で考えればいい」
澪が顔を上げる。
「四人……」
「嫌?」
「……ううん」
澪は小さく首を振った。
「嫌じゃない」
その言葉を口にした瞬間。
澪の端末が、初めて完全に沈黙した。
画面にあった「命軌欠損」という文字が消える。
代わりに。
新しい文字が一つだけ浮かんだ。
――選択済み。
誰も、その意味を知らなかった。
ただ。
地下通路の先にある暗闇の中で。
古い扉が、ゆっくりと開いた。
その向こうには。
第七街区には存在しないはずの、もう一つの街が広がっていた。




