第125章 言わなくても、分かること
海から戻った翌日。
万事修理店の朝は、いつもと変わらなかった。
林夏が店を開ける。
月白が本を持ってやって来る。
そして、二人分の朝食を作る。
「今日は何ですか?」
「卵焼き」
「昨日も卵を食べました」
「卵は毎日食べても怒らない」
「卵に聞いたんですか?」
「聞いてないけど、たぶん大丈夫」
月白は笑った。
テーブルの上に皿が並ぶ。
昨日、海で買った小さな貝殻が一つ。
月白はそれを手に取った。
「これ、持って帰ってきたんですね」
「記念」
「何の?」
「昨日の」
「昨日?」
「月白がまた行きたいって言った日」
月白は貝殻を見つめた。
「……そうでしたね」
「だから、ここに置いとく」
「大事にしてください」
「もちろん」
月白は少し笑った。
その時、店の扉が開いた。
紅葉だった。
「朝から仲良しね」
「おはよう」
「おはよう」
紅葉は二人の前に座った。
「七番から連絡が来た」
「どうでした?」
月白が聞く。
「今度、昼飯を食べる」
「それはいいですね」
「まだ好きかどうかは分からないけど」
「うん」
「でも、会うのは嫌じゃない」
紅葉はそう言って、少し考えた。
「前は、答えを出してから会わなきゃいけないと思ってた」
「今は?」
「会ってから考えてもいいと思ってる」
林夏が頷く。
「そのほうが楽だな」
「あなたはいつも楽なほうへ行くわね」
「楽しいほうへ行ってるだけ」
紅葉は呆れたように笑った。
「まあ、いいけど」
その日の昼。
紅葉は七番と小さな定食屋に入った。
店員が二人を見て言う。
「お二人ですか?」
「はい」
席に案内される。
注文を終えると、七番が水を飲んだ。
「こういうの、昔もあったな」
「何が?」
「二人で飯を食べるの」
「そうね」
「でも、同じじゃない」
紅葉は頷いた。
「同じにしなくていいと思う」
「うん」
料理が運ばれてくる。
紅葉は箸を持った。
「食べよう」
「いただきます」
二人は普通に食事をした。
昔の話をしすぎることもない。
未来について決めることもない。
ただ、一緒に食べた。
食事が終わったあと、七番が言った。
「また誘ってもいい?」
紅葉は少し考えた。
「私から誘うかもしれない」
「分かった」
「その時は断らないで」
「もちろん」
二人は店を出た。
駅へ向かう道で、紅葉は少しだけ笑った。
昔と同じ場所ではない。
でも、今の自分たちには今の時間がある。
それでいいと思った。
一方。
澪は古本屋の前で真琴を待っていた。
今日は真琴からの誘いだった。
「お待たせしました」
「大丈夫です」
澪は本を一冊差し出した。
「これ」
「何ですか?」
「昨日見ていた本です」
「買ったんですか?」
「はい」
真琴は本を受け取る。
「読んだんですか?」
「まだです」
「じゃあ、どうして?」
澪は少し考えた。
「一緒に読んでみたいと思って」
真琴は黙った。
それから笑った。
「それなら、今日読んでみますか?」
「はい」
二人は近くの喫茶店に入った。
向かい合って座る。
本を開く。
最初は静かだった。
ページをめくる音だけが聞こえる。
しばらくして、澪が言った。
「この主人公、変ですね」
「どこが?」
「自分の気持ちを分かっているのに、言わない」
「そういう人もいるでしょう」
「でも、言わなければ相手には分からない」
「そうですね」
真琴は本を閉じた。
「でも、言うことが正しいとも限らない」
澪は顔を上げた。
「どうして?」
「言ったことで、相手に答えを求めてしまうこともあるから」
澪は少し考えた。
「……なるほど」
「だから、言わないという選択もある」
「でも」
澪は本の表紙を撫でた。
「言わなくても、会いたいと思うことはあります」
真琴は笑った。
「それなら、また会えばいいんじゃないですか?」
澪は頷いた。
「はい」
二人は再び本を開いた。
その頃。
万事修理店では、月白が棚の整理をしていた。
林夏は修理台に向かっている。
「林夏」
「ん?」
「昨日のことですが」
「海?」
「はい」
月白は少し迷った。
「また行きたいです」
「いいよ」
「今度は私が決めます」
「じゃあ、どこに行く?」
「まだ考えています」
「急がなくていい」
月白は笑った。
「そうですね」
少し間を置いてから、月白が続ける。
「でも、一つだけ決めています」
「何?」
「また林夏と行きます」
林夏は手を止めた。
「それは嬉しい」
月白は頷いた。
「私もです」
その時、修理台の上に置かれていた端末が短く光った。
林夏は見る。
月白も見る。
画面には、久しぶりに命軌の記録が表示されていた。
【対象:月白】
【次回接触:予測不能】
【関係変化:継続】
そして、その下に一行。
【本人による選択:観測中】
月白は画面を見つめた。
以前なら、その表示を見て不安になっていた。
今は違った。
「観測されているんですね」
「みたいだな」
「でも」
月白は端末から目を離した。
「観測されていることと、決められていることは違います」
林夏は笑った。
「そういうこと」
月白は本を閉じた。
「じゃあ、次にどこへ行くかは、自分で決めます」
「楽しみにしてる」
端末の光が消える。
店の中には、いつもの静かな時間が戻った。
誰かが誰かを好きなのか。
昔の関係が戻るのか。
新しい関係が始まるのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ。
会いたいと思った人に会いに行くこと。
もう一度話したいと思った人と話すこと。
そして、次の一歩を自分で決めること。
それだけは、誰にも決めてもらわなくてよかった。
【関係:継続】
【選択:本人による更新】
【観測:継続】
【未来:未確定】




