第121章 会う理由を、自分で決める
朝。
月白は万事修理店の前で立ち止まった。
店の中には、まだ明かりがついていない。
いつもなら、もう少し遅い時間に来る。
けれど今日は、少し早く来た。
理由は一つだった。
昨夜から、頭の中に同じ名前が浮かんでいる。
白澤。
以前なら、その名前を思い出すだけで胸が苦しくなった。
過去の契約。
命軌の安定。
自分ではない誰かが、自分の人生を決めていた時間。
けれど、今は少し違う。
怖くないわけではない。
ただ、以前ほど逃げたいとは思わなかった。
月白はスマートフォンを取り出した。
白澤の連絡先は、まだ残っている。
指が画面の上で止まった。
会うべきなのか。
会わないべきなのか。
昨日までなら、誰かに相談していたかもしれない。
林夏に聞けば、おそらくこう言うだろう。
「月白が決めればいい」
その答えは分かっている。
だからこそ、今日は自分で決めたかった。
月白は短い文章を入力した。
【少し話したいことがあります】
送信する。
すぐに返事が来た。
【分かりました】
月白は画面を閉じた。
そして、店のシャッターが上がる音を聞いた。
「早いな」
林夏だった。
「おはようございます」
「おはよう」
林夏は月白の顔を見た。
「何かあった?」
「白澤さんに連絡しました」
林夏の手が一瞬止まった。
「会うのか?」
「はい」
「そうか」
「反対しますか?」
林夏は少し考えた。
「反対したい」
月白は静かに聞いていた。
「でも、止めない」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「嫌なことがあったら、帰ってこい」
月白は少し笑った。
「それは、私が決めてもいいんですよね?」
「もちろん」
「分かりました」
林夏は店の奥へ戻った。
「朝飯、食べるか?」
「食べます」
「じゃあ、今日は少し甘めにする」
「どうしてですか?」
「大事な話をする日は、甘いものがいい」
「そんな決まりありましたか?」
「今作った」
月白は笑った。
⸻
昼。
月白は、以前白澤と会ったことのある場所へ向かった。
古い公園だった。
ベンチの近くには、昔と同じ木が立っている。
白澤は先に来ていた。
「久しぶりですね」
「はい」
二人は向かい合った。
白澤は以前より少し落ち着いて見えた。
「どうして会いたいと思ったんですか?」
月白はすぐには答えなかった。
「聞きたいことがあります」
「命軌のことですか?」
「それもあります」
「では、何でしょう」
月白は白澤を見た。
「昔の私は、どうしてあなたとの契約を選んだんですか?」
白澤は黙った。
「記録を見ても、理由が全部分かりません」
「……あなたは、当時のことをあまり覚えていない」
「はい」
「怖かったからです」
月白の表情が少し変わった。
「何が?」
「未来が」
白澤は静かに答えた。
「自分の命軌が不安定で、いつ何が起こるのか分からなかった。だから、安定した道を選びたかった」
月白は黙っていた。
「私は、そのときあなたに何を求めていたんですか?」
「守ってほしい、と言われました」
月白は目を伏せた。
「そうですか」
「ですが」
白澤は続けた。
「私は、その言葉を自分に都合よく解釈していました」
「どういう意味ですか?」
「守ることと、決めることを同じだと思っていた」
月白は顔を上げた。
白澤は続けた。
「あなたが苦しまないように、あなたの代わりに選べばいいと思っていた」
「……今は?」
「間違っていたと思います」
月白はすぐには答えなかった。
「謝るつもりですか?」
「はい」
「それだけですか?」
「それだけです」
白澤は月白を見た。
「あなたに許してもらうために謝るつもりはありません」
月白は少し驚いた。
「では、何のために?」
「自分がしたことを、自分のものとして認めるためです」
風が吹いた。
木の葉が静かに揺れる。
月白はしばらくその音を聞いていた。
「白澤さん」
「はい」
「私、あなたを許すかどうかは、まだ決めません」
「分かっています」
「でも」
月白は続けた。
「昔のことを、全部嫌いだったことにするつもりもありません」
白澤の表情が少し変わった。
「楽しかった時間も、あったと思います」
「……はい」
「だから、過去を全部否定する必要はないと思っています」
白澤は静かにうなずいた。
「それで十分です」
月白は立ち上がった。
「もう一つだけ」
「何でしょう」
「私がこれから誰と一緒にいるかは、私が決めます」
「分かっています」
「林夏さんといることも」
白澤は少しだけ目を閉じた。
「はい」
「それを聞いて、何か言いたいことはありますか?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて白澤は首を横に振った。
「ありません」
月白はうなずいた。
「では、今日はこれで」
「月白さん」
「はい?」
「会いに来てくれて、ありがとうございました」
月白は少し考えた。
「私が話したかったから来ただけです」
そう言って、歩き始めた。
⸻
帰り道。
月白は駅へ向かっていた。
足取りは軽かった。
過去が消えたわけではない。
白澤との関係がきれいに終わったわけでもない。
許したわけでもない。
それでも、今日は自分で会いに行った。
誰かに言われたからではない。
命軌に書かれていたからでもない。
ただ、自分が話したいと思ったから。
それだけだった。
スマートフォンが震えた。
林夏からだった。
【夕飯、カレーの残りでいい?】
月白は思わず笑った。
返信する。
【いいです。でも、少しだけ何か追加してください】
すぐに返事が来た。
【贅沢だな】
月白は歩きながら返信した。
【今日は大事な話をしたので】
【じゃあ、肉を追加する】
【ありがとうございます】
スマートフォンをしまう。
月白は空を見上げた。
今日の空は、昨日と同じように青かった。
けれど、昨日の自分とは少し違う。
⸻
夕方。
万事修理店に戻ると、林夏が台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「どうだった?」
月白は靴を脱ぎながら答えた。
「話してきました」
「そうか」
「いろいろ聞きました」
「うん」
「でも、全部は分かりませんでした」
林夏は鍋をかき混ぜながら言った。
「全部分からなくてもいいんじゃないか?」
「そうですね」
月白は椅子に座った。
「昔の私は、未来が分からないのが怖くて、誰かに決めてもらったみたいです」
「なるほど」
「でも今は、未来が分からなくても、自分で決めたいと思います」
林夏は振り返った。
「それなら、よかった」
月白は少し笑った。
「林夏さん」
「ん?」
「今日は、会いに行ってよかったです」
「そっか」
「でも、林夏さんと一緒にいることを選んだのも、変わりません」
林夏は少し照れたように顔をそらした。
「……そういうことを普通に言うようになったな」
「言いたいことは言った方がいいと思ったので」
「それも選択?」
「はい」
林夏は笑った。
「じゃあ、俺も一つ選ぶ」
「何ですか?」
「今日は肉を多めにする」
月白は笑った。
「それは、いい選択ですね」
二人は夕食の準備を始めた。
店の外では、夜の街が少しずつ暗くなっていく。
過去は消えない。
記録も消えない。
選んだことも、選ばなかったことも、すべて人生の中に残っていく。
けれど、それらが未来を一つに固定するとは限らない。
人は、過去を抱えたままでも、新しい選択をすることができる。
月白は今日、それを自分自身で確かめた。
端末の画面が静かに光る。
【過去との接触:確認】
【本人による接触:成立】
【関係:再固定されず】
【現在の選択:継続】
【未来:未確定】
月白は画面を閉じた。
そして、林夏の隣に立った。
今日は、それで十分だった。




