第120章 決めたことを、変えてもいい
翌朝。
月白は、いつもより早く目を覚ました。
昨夜見つけた記録のことが、頭から離れなかった。
【命軌変更履歴:存在】
【変更理由:本人による選択】
あの記録は、自分が過去に何かを選んだことを示している。
けれど、それ以上は分からない。
誰かに助けられたのか。
誰かを選んだのか。
何かから逃げたのか。
あるいは、何かを捨てたのか。
分からない。
だからこそ、知りたかった。
月白は服を着替え、万事修理店へ向かった。
⸻
店に着くと、林夏はまだシャッターを半分しか開けていなかった。
「おはよう」
「おはようございます」
月白が入ってくる。
林夏は彼女の顔を見た。
「早いな」
「昨日のことを調べようと思って」
「そうか」
林夏はそれ以上、何も言わなかった。
「林夏さんは?」
「朝飯を作る」
「調べるのを手伝ってくれますか?」
「手伝う」
「止めませんか?」
「止めたいとは思う」
「でも?」
「でも、昨日言っただろ」
林夏は鍋を火にかけた。
「最後に決めるのは月白だ」
月白は少し笑った。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい?」
「朝飯は食べてから」
「……やっぱり、それですか」
「空腹で命軌を調べるのは危険だ」
「どうしてですか?」
「腹が減ってると、ろくな判断をしない」
月白は笑った。
「それは林夏さんだけでは?」
「俺は人類代表だ」
「違います」
二人は笑った。
⸻
朝食を終えたあと、月白は端末を机の上に置いた。
昨夜の記録を開く。
しかし、何度操作しても同じ表示しか出ない。
【この記録は、本人の選択によってのみ再表示されます】
「本人の選択……」
月白はつぶやいた。
「どういう意味だと思う?」
林夏は端末を覗き込んだ。
「文字通りじゃないか?」
「私が何かを選べば、記録が出てくる」
「たぶん」
「何を選ぶんでしょう」
「そこまでは分からない」
月白はしばらく考えた。
そして、端末を閉じた。
「では、今日は調べるのをやめます」
林夏が顔を上げた。
「いいのか?」
「はい」
「昨日は調べたいって言ってたのに」
「今も調べたいです」
月白は窓の外を見た。
「でも、今は何を選べばいいのか分からないので」
「なるほど」
「分からないまま、適当に選びたくありません」
林夏は少し笑った。
「それも、選択だな」
「はい」
月白も笑った。
「今日は、調べないことを選びます」
その瞬間だった。
机の上の端末が、小さく音を立てた。
二人が振り返る。
画面には新しい表示が出ていた。
【本人による選択を確認】
その下に、昨日は表示されなかった記録が一行だけ現れる。
【変更履歴:第一選択】
月白は息を呑んだ。
「……これが?」
林夏も画面を見る。
「どうやらな」
「調べないことを選んだだけなのに」
「それも選択だったんだろ」
月白はしばらく画面を見つめた。
そして、続きを開こうとした。
しかし、今度は表示されなかった。
「また閉じました」
「今日はここまでなんじゃないか?」
「そうかもしれません」
月白は端末をしまった。
不思議だった。
知りたい。
でも、知るために何かを無理やり選びたいわけではない。
昨日までは、記録を開くことが「選ぶこと」だと思っていた。
けれど違った。
何もしないことも。
待つことも。
やめることも。
全部、自分で決めることができる。
⸻
昼前。
紅葉が店にやってきた。
「何か見つかった?」
「少しだけ」
月白が答える。
紅葉は端末を見る。
「命軌の変更履歴?」
「うん」
「どうやって出したの?」
月白は少し考えた。
「調べないことを選びました」
紅葉は目を丸くした。
「それで?」
「出ました」
「変なシステム」
「そうですね」
紅葉は笑った。
「でも、少し分かる気がする」
「どうして?」
「昔の私は、何かを決めるのが怖かったから」
紅葉は椅子に座った。
「誰かに決めてもらえば、失敗したときに自分だけの責任じゃなくなるから」
月白は黙って聞いていた。
「でも、今は違う」
「七番さんと話して、そう思ったんですか?」
「それもある」
紅葉は窓の外を見た。
「昔の関係に戻るかどうかも、自分で決める」
「どうするんですか?」
「まだ決めてない」
月白は笑った。
「紅葉さんらしいですね」
「そう?」
「はい」
紅葉は少しだけ考えた。
「でも、七番とはまた会うよ」
「どうして?」
「昨日、一緒に歩いて楽しかったから」
それだけだった。
大きな理由もない。
過去の記録も関係ない。
ただ、もう一度会いたいと思った。
それで十分だった。
⸻
午後。
林夏は壊れた時計を修理していた。
澪の祖父の腕時計だった。
「動いた」
秒針が静かに動き始める。
月白が横から覗き込む。
「直りましたね」
「時計はな」
「人間は?」
林夏は少し考えた。
「人間は、自分で直るしかない」
「林夏さんでも?」
「俺には無理」
月白は笑った。
「そういうところ、好きです」
林夏の手が止まった。
「急に言うなよ」
「言いたくなったので」
「そういうのも選択か?」
「はい」
月白は頷いた。
「今、言うことを自分で選びました」
林夏は少し照れながら、時計を箱に戻した。
「じゃあ、俺も一つ選ぶ」
「何を?」
「今日の夕飯」
「何にしますか?」
「カレー」
「昨日、鍋って言ってませんでした?」
「予定変更」
月白は笑った。
「ずいぶん簡単な変更ですね」
「人間の選択なんて、案外そんなものだろ」
⸻
夕方。
澪が時計を受け取りに来た。
「ありがとうございました」
「ちゃんと動いてるぞ」
澪が時計を見る。
秒針は、以前と同じように動いている。
「祖父が大切にしていたものなので」
「なら、長く使え」
「はい」
澪は時計をしまった。
そして、少し迷ってから言った。
「この前、真琴さんと会いました」
「うん」
「また会うことになりました」
月白が微笑む。
「よかったですね」
「はい」
澪は少しだけ照れた。
「まだ、どうなるか分かりませんけど」
「それでいいと思います」
月白が言った。
「分からないままでも、次に会うことはできますから」
澪はその言葉を聞いて、静かに笑った。
「そうですね」
店を出る前、澪は振り返った。
「次は、私から誘ってみようと思います」
「いいですね」
月白が答えた。
「自分で決めたことなら」
澪は頷き、店を出ていった。
⸻
夜。
林夏がカレーを盛り付ける。
月白はテーブルに皿を並べた。
「今日は、いろいろありましたね」
「そうだな」
「命軌のことも」
「うん」
「紅葉さんのことも」
「うん」
「澪さんのことも」
「うん」
月白は椅子に座った。
「でも、全部まだ決まっていません」
「だからいいんじゃないか?」
林夏は向かいに座った。
「決まってないなら、また決められる」
月白はカレーを一口食べた。
「おいしいです」
「だろ?」
「少し辛いですけど」
「そこもいいだろ」
月白は笑った。
「林夏さんは、本当に自信がありますね」
「料理だけはな」
二人は静かに食事を続けた。
窓の外では、街の明かりが揺れている。
命軌が何を決めるのか。
過去に何があったのか。
これから誰と誰が出会い、離れ、また近づくのか。
まだ何も分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
一度決めたことでも、もう一度選び直すことはできる。
そして、選び直したからといって、最初の選択が間違いだったとは限らない。
そのときの自分が、そのときの自分として選んだ。
それだけでいい。
机の上の端末が、最後に一度だけ光った。
【第一選択:確認】
【変更:可能】
【固定:なし】
そして、その下に新しい一行が現れた。
【次の選択:本人による】
月白は画面を見た。
林夏も見た。
二人は何も言わなかった。
今夜は、これ以上調べない。
それもまた、自分たちで選んだことだった。




