第119章 同じ答えを選ばなくても
朝。
万事修理店のシャッターを開けると、冷たい風が店の中へ入り込んできた。
林夏は肩をすくめた。
「寒いな」
「もう秋ですから」
月白が店の奥から出てきた。
「昨日より少し寒いですね」
「じゃあ、今日は鍋にするか」
「朝からですか?」
「夕食の話」
「まだ朝ですよ」
「だから、今から考えておけばいい」
月白は笑った。
「林夏さんは、本当に食べ物のことばかりですね」
「人生の三分の一は食事だぞ」
「そんなに多くありません」
「じゃあ、四分の一」
「増えています」
二人が笑っていると、店の扉が開いた。
紅葉だった。
「おはよう」
「おはよう、紅葉」
月白が振り返る。
「昨日はどうでしたか?」
紅葉は少しだけ考えた。
「普通だったよ」
「普通?」
「喫茶店に行って、歩いて、公園に行って、それから帰った」
林夏が言った。
「それなら、普通だな」
「そうでしょ?」
紅葉は笑った。
「でも、七番とは少し話した」
「何を?」
月白が尋ねる。
紅葉は少し黙った。
「昔のこと」
その言葉に、月白の表情が少し変わった。
「昔の関係について?」
「うん」
「何か分かったんですか?」
「何も」
紅葉は首を横に振った。
「だから、今はそれでいいと思ってる」
林夏はそれ以上聞かなかった。
紅葉も、説明しようとはしなかった。
それぞれが自分のことを、自分で決める。
その距離感は、いつの間にかこの店の中では自然なものになっていた。
⸻
昼過ぎ。
澪が店を訪れた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
林夏が顔を上げる。
「今日は何を直す?」
「これです」
澪が鞄から小さな腕時計を取り出した。
「止まってしまって」
林夏が受け取る。
「古いな」
「祖父のものです」
「なるほど」
林夏は裏蓋を確認した。
「たぶん直せる」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺は神様じゃないからな」
澪は笑った。
「では、お願いします」
「分かった」
澪が時計を預けると、店の隅にある椅子へ座った。
月白が本を閉じる。
「真琴さんとは、どうでしたか?」
澪は少し驚いた。
「聞くんですか?」
「聞きたかったら話してください」
「……そういう言い方、ずるいですね」
月白は笑った。
「すみません」
澪は少し考えてから答えた。
「楽しかったです」
「そうですか」
「また会うことになりました」
「よかったですね」
「はい」
澪は笑った。
それから少しして、表情が変わった。
「でも、一つだけ気になっていることがあります」
月白が顔を上げた。
「何ですか?」
「真琴さんと会うたびに、記録が変わるんです」
澪は端末を取り出した。
画面には、以前と同じような表示が出ていた。
【対象:澪】
【関係:未定義】
【継続:確認】
そして、その下に新しい一行があった。
【観測誤差:増加】
月白は画面を見つめた。
「また増えていますね」
「はい」
「気になりますか?」
「少し」
澪は画面を閉じた。
「でも、調べるべきなのか分かりません」
林夏が作業台から顔を上げた。
「調べたいなら調べればいいんじゃないか?」
「林夏さんなら、そう言うと思いました」
「逆に、調べたくないなら調べなくていい」
「簡単ですね」
「簡単だろ?」
澪は苦笑した。
「でも、調べたことで何かが変わるかもしれません」
「変わるかもしれない」
「何も変わらないかもしれない」
「そうだな」
「怖くないんですか?」
林夏は少し考えた。
「怖いよ」
澪は意外そうな顔をした。
「怖いんですか?」
「そりゃ怖いだろ」
林夏は工具を置いた。
「分からないものを調べるんだから」
「では、なぜ調べるんですか?」
「知りたいから」
林夏はそれだけ言った。
「怖いからって、知りたい気持ちまで消えるわけじゃないだろ」
澪は黙った。
月白も、静かに聞いていた。
⸻
その日の夕方。
澪が帰ったあと、月白は店の外に出た。
林夏も後から出てくる。
二人は店の前に並んで立った。
「澪さん、調べると思いますか?」
「分からない」
「林夏さんは?」
「分からない」
月白は少し笑った。
「今日は、分からないばかりですね」
「人生そんなもんだろ」
月白はしばらく黙っていた。
そして、言った。
「私も調べたいです」
林夏は月白を見る。
「自分の命軌を?」
「はい」
「いつから?」
「前からです」
「そうか」
「でも」
月白は少し視線を落とした。
「調べることで、今の生活が変わってしまうかもしれません」
「そうだな」
「林夏さんは、どう思いますか?」
林夏はすぐには答えなかった。
「俺は、調べない方がいいと思う」
月白が顔を上げた。
「……そう思うんですか?」
「うん」
「理由を聞いてもいいですか?」
「今が悪くないから」
月白は黙った。
林夏は続けた。
「過去の記録を調べて、これから何が起こるか分かってしまったら、今までみたいに普通に過ごせなくなるかもしれない」
「それは……」
「だから、俺は調べない方がいいと思う」
月白はしばらく考えた。
そして、静かに言った。
「私は、調べたいです」
林夏はうなずいた。
「分かった」
「反対しないんですか?」
「反対はする」
月白は少し驚いた。
「でも、止めません」
「どうして?」
「月白の人生だから」
その言葉を聞いて、月白は何も言わなかった。
風が二人の間を通り過ぎる。
「林夏さん」
「ん?」
「私は、林夏さんと違う答えを選んでもいいですか?」
「もちろん」
「嫌じゃないですか?」
林夏は少し考えた。
「嫌だと思う」
月白が目を瞬かせた。
「嫌なんですか?」
「そりゃ、好きな人が危ないことを調べに行くなら嫌だろ」
月白は黙った。
林夏自身も、言ってから少しだけ照れた。
「……今、好きって言いました?」
「言ったな」
「もう一度言ってください」
「なんで?」
「聞きたいので」
林夏は頭をかいた。
「好きだよ」
月白は小さく笑った。
「ありがとうございます」
「でも、それと月白が何をするかは別だ」
「はい」
「止めたいと思うかもしれない」
「はい」
「でも、最後に決めるのは月白だ」
月白は静かにうなずいた。
「分かりました」
⸻
夜。
月白は一人で古い記録を開いていた。
画面には、何年も前の記録が並んでいる。
【中心対象:林夏】
【関連対象:月白】
【観測継続】
そして、さらに下。
以前は見つからなかった記録が、一つだけ表示された。
【対象:月白】
【命軌変更履歴:存在】
月白の指が止まった。
その下には、短い文章があった。
【変更理由:本人による選択】
月白は息を止めた。
さらに開こうとした。
しかし、画面が突然消えた。
「……え?」
端末が再起動する。
数秒後、画面に一行だけ表示された。
【この記録は、本人の選択によってのみ再表示されます】
月白はしばらく画面を見つめていた。
誰かが隠しているのか。
それとも、システムそのものがそういう仕組みなのか。
まだ分からない。
けれど、一つだけ分かった。
自分の命軌は、最初から完全に固定されていたわけではない。
過去に一度、誰かが変えた。
その誰かが自分自身だった可能性もある。
月白は端末を閉じた。
明日、続きを調べるか。
それとも、やめるか。
まだ決めていない。
ただ、今日の自分が知りたいと思ったことだけは、確かだった。
⸻
同じ頃。
林夏は店の奥で一人、鍋を洗っていた。
テーブルには、月白が使っていた茶碗が一つ残っている。
林夏はそれを見て、小さく笑った。
「まあ、本人が決めたなら仕方ないか」
そう言って、茶碗を洗った。
その顔には、少しだけ不安が残っていた。
けれど、月白を追いかけることはしなかった。
心配することと、決めることは違う。
好きでいることと、相手の人生を握ることも違う。
林夏は、その違いだけは忘れないようにしていた。
店の灯りを消す。
外は静かだった。
明日、月白が何を選ぶのか。
林夏には分からない。
月白自身にも、まだ分からない。
それでも。
分からないまま、明日を迎えることはできる。
【命軌変更履歴:存在】
【変更理由:本人による選択】
【現在:未確定】
【次の選択:本人による】




