第118章 昔の続きを選ばない
午後。
紅葉は古い喫茶店の前に立っていた。
三年前にも、一度だけ来たことがある。
もっと正確に言えば、三年前には何度も来ていた。
けれど、その頃の記憶を思い出そうとすると、ところどころに穴がある。
誰と座っていたのか。
何を話したのか。
最後に、どうやって別れたのか。
覚えていることもあれば、思い出せないこともある。
それでも、この場所だけは覚えていた。
赤い看板。
少し古びた窓。
入口の横に置かれた小さな植木鉢。
そして、店の奥にある二人用の席。
紅葉が扉を開けると、七番がすでに来ていた。
「早かったね」
「紅葉が遅いだけだ」
「そういうところ、昔から変わらないね」
七番は一瞬だけ黙った。
「……昔から、か」
紅葉はその言葉に気づいた。
「何?」
「いや」
七番は首を横に振った。
「座ろう」
二人は以前と同じ席に座った。
店員が注文を聞きに来る。
紅葉はコーヒーを頼み、七番は紅茶を頼んだ。
注文を終えると、二人の間に短い沈黙が落ちた。
以前なら、こんな沈黙は気にならなかった。
けれど今は違う。
二人とも、三年前という時間を意識している。
「この店、覚えてる?」
紅葉が尋ねた。
「覚えてる」
「何を?」
「紅葉が、ここのプリンを毎回頼んでた」
紅葉は目を丸くした。
「それだけ?」
「あと、食べ終わるのが遅かった」
「それは今も同じ」
「そうだな」
七番が笑った。
紅葉も笑った。
ほんの少しだけ、昔の空気が戻った気がした。
けれど、紅葉はすぐに視線を落とした。
「ねえ」
「うん」
「私たち、昔は付き合ってたのかな」
七番は答えなかった。
「記録には、そう書いてあった」
「でも、記録だけでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ、七番自身は?」
七番は紅葉を見た。
「分からない」
紅葉は少しだけ安心したように息を吐いた。
「そっか」
「期待してた?」
「逆」
紅葉は苦笑した。
「分かったふりをされる方が嫌だった」
七番は黙っていた。
「私も、覚えていないから」
紅葉は窓の外を見た。
「昔の私が七番を好きだったとしても、それを今の私にそのまま渡されても困る」
「……うん」
「七番だって同じでしょう?」
「そうだな」
七番は紅茶を一口飲んだ。
「三年間、俺は紅葉が死んだと思っていた」
紅葉は何も言わなかった。
「だから、何度も思い出した」
「私を?」
「そう」
「どんなふうに?」
七番は少し考えた。
「最初は、好きだったから思い出していたと思う」
「最初は?」
「途中からは、後悔していたからだと思う」
紅葉は静かに聞いていた。
「もっと早く探していればよかったとか、もっと疑えばよかったとか。そういうことを何度も考えた」
「でも、今は私がいる」
「ああ」
「それなら?」
七番はしばらく考えた。
「今の紅葉を見ている」
紅葉は目を上げた。
「昔の紅葉じゃなくて?」
「昔の紅葉を知らないわけじゃない」
七番は言った。
「でも、今ここにいるのは今の紅葉だから」
紅葉は何も答えなかった。
その言葉は、思っていたより重かった。
昔の関係を取り戻す。
そんな言葉なら、簡単だった。
昔から好きだった。
だから今も好きだ。
そう言えば、話はきれいにつながる。
けれど、それでは三年間という時間がなかったことになってしまう。
紅葉は、それを望んでいなかった。
「七番」
「うん」
「私たち、昔に戻らなくてもいいんじゃない?」
七番は紅葉を見た。
「……そうだな」
「今から始めればいい」
「何を?」
紅葉は少し困ったように笑った。
「それは、まだ分からない」
七番も笑った。
「そういうところ、本当に紅葉らしい」
「昔から?」
「いや」
七番は首を横に振った。
「今の紅葉らしい」
紅葉は少しだけ目を細めた。
その言葉は、不思議と嫌ではなかった。
⸻
喫茶店を出たあと、二人は目的もなく歩いた。
以前なら、行き先を決めていた。
任務があった。
時間が決まっていた。
戻る場所も決まっていた。
今は何もない。
「どこ行く?」
紅葉が聞いた。
「紅葉が決めればいい」
「私?」
「うん」
「七番は?」
「俺はどこでもいい」
紅葉は立ち止まった。
「それ、ちょっとずるいよ」
「そうか?」
「全部私に決めさせてる」
七番は少し考えた。
「じゃあ、俺も一つ決める」
「何?」
「今日は帰らない」
「……どういう意味?」
「もう少し一緒に歩く」
紅葉は目を瞬かせた。
「それなら、最初からそう言えばいいのに」
「言い方が分からなかった」
「本当に不器用だね」
「よく言われる」
二人はまた歩き始めた。
しばらくして、紅葉が小さな公園を見つけた。
「ここ、入ってみよう」
「分かった」
ベンチに座る。
子供たちが走っている。
犬を連れて歩く人もいる。
誰も二人のことを知らない。
それが、紅葉には少し心地よかった。
「七番」
「ん?」
「もし、私が昔のことを全部思い出したら」
「うん」
「それでも、今の私が七番を好きになるとは限らないよ」
「分かってる」
「もし、好きにならなかったら?」
七番は少しだけ空を見た。
「そのときは、そのときだ」
「悲しくない?」
「悲しいと思う」
「それでも?」
「それでも、紅葉が決めたことなら受け入れる」
紅葉は黙った。
それは、以前の七番なら言えなかった言葉かもしれない。
そして、自分自身も。
以前の紅葉なら、誰かに決めてもらいたかったのかもしれない。
正しい答えを。
安全な道を。
失敗しない選択を。
でも今は違う。
正しいかどうか分からなくても、自分で選ぶしかない。
紅葉はベンチから立ち上がった。
「じゃあ、もう少し歩こう」
七番も立ち上がった。
「どこへ?」
「知らない」
「それでいいの?」
「今日は、それでいい」
二人は公園を出た。
⸻
その頃。
万事修理店では、林夏が机の上に大量の食材を並べていた。
「多すぎませんか?」
月白が言った。
「大丈夫」
「昨日もそう言っていました」
「昨日は大丈夫だった」
「昨日、余りましたよね」
「今日食べればいい」
月白は冷蔵庫を開けた。
「今日の分も入らないです」
林夏が冷蔵庫を覗き込む。
「……本当だ」
「どうしますか?」
「食べる」
「それしかないんですね」
「食材を捨てるよりいいだろ」
月白は少し笑った。
「では、手伝います」
「頼む」
月白が野菜を切り始める。
林夏は魚を下処理する。
しばらくすると、店内には料理の匂いが広がった。
「そういえば」
月白が言った。
「紅葉さんたち、今日はどうしているでしょうね」
「たぶん、二人で話してるんじゃないか」
「何を?」
「昔のこととか、これからのこととか」
月白は少し考えた。
「昔の関係があったとしても、今も同じ関係とは限らないですよね」
「そうだな」
林夏は包丁を置いた。
「人間は毎日ちょっとずつ変わるからな」
「では、昨日の自分と今日の自分も違いますか?」
「腹が減ってるかどうかは違う」
「そこですか」
月白が笑った。
林夏も笑った。
「でも、月白」
「はい」
「昨日一緒にいたからって、今日も一緒にいなきゃいけないわけじゃない」
月白は少しだけ考えた。
「……そうですね」
「今日、一緒にいたいなら、一緒にいればいい」
月白は手を止めた。
「私は、今日も一緒にいたいです」
林夏は振り返った。
「じゃあ、食べよう」
「はい」
月白は笑った。
⸻
夕方。
紅葉と七番は駅へ戻ってきた。
「今日は、ありがとう」
紅葉が言った。
「こちらこそ」
「また会おう」
七番はうなずいた。
「うん」
「次は私から誘う」
「分かった」
紅葉は改札へ向かいかけた。
そして、ふと振り返った。
「七番」
「何?」
「昔のことは、まだ分からないけど」
「うん」
「今日のことは覚えてる」
七番は少し驚いた。
紅葉は笑った。
「だから、今日はこれでいい」
そう言って、改札の向こうへ歩いていった。
七番は、その背中をしばらく見送った。
追いかけることはしなかった。
ただ、スマートフォンを取り出し、古い記録を開いた。
そこには、まだ過去の関係が残っている。
【対象:紅葉】
【旧関係:固定】
【現在関係:未定義】
七番は画面を閉じた。
そして、新しい記録を一つだけ残した。
【本人による継続:確認】
それ以上は、何も書かなかった。
過去を消す必要はない。
過去に戻る必要もない。
今の二人がどこへ向かうのかは、まだ決まっていない。
だからこそ、次に会う理由も、これから二人で作っていけばいい。
【過去:継続】
【現在:本人による選択】
【関係:未定義】
【未来:未確定】




