第117章 私が決めた場所
翌朝。
林夏が店のシャッターを開けると、月白はすでに通りの向こうに立っていた。
「おはよう」
林夏が手を上げる。
「おはようございます」
月白が近づいてくる。
「今日は俺がついていく日だな」
「はい」
「場所は?」
「まだ秘密です」
「本当に秘密なんだ」
「昨日、そう言いましたから」
林夏は笑った。
「じゃあ、今日は全部月白に任せる」
月白は小さく頷いた。
「お願いします」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
いつもなら林夏が先に歩く。
けれど今日は、月白が少しだけ前を歩いていた。
しばらくして、林夏が声をかける。
「月白」
「はい?」
「緊張してる?」
月白の足が少し止まった。
「……少し」
「どうして?」
「誰かを自分から誘うのが、初めてだからです」
林夏は笑わなかった。
ただ、少し考えてから言った。
「じゃあ、俺も緊張しておく」
月白が振り返る。
「林夏も?」
「うん」
「どうして?」
「分からない」
月白は思わず笑った。
「それじゃあ、同じですね」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
***
電車を降りると、海が見えた。
月白は駅の出口で立ち止まり、遠くを眺める。
「ここ?」
「はい」
「海、見たかったの?」
「前から少し」
月白は海を見ながら続けた。
「でも、いつもはどこへ行くかを誰かに決めてもらっていました」
林夏は黙って聞いていた。
「ここには、特別な理由はありません」
「それでいいんじゃない?」
「はい」
月白は林夏を見る。
「今日は、私が見たかったから来ました」
「じゃあ、見よう」
「はい」
二人は海沿いの道を歩き始めた。
風が強い。
月白の髪が何度も顔にかかる。
林夏が手を伸ばし、髪を耳の後ろへ戻した。
月白が少し驚く。
「……ありがとうございます」
「風、強いから」
「はい」
少し間が空く。
月白は小さく笑った。
「嫌ではありませんでした」
「そう?」
「はい」
林夏も笑った。
「それならよかった」
二人はまた歩き出した。
***
昼前。
海沿いの小さな食堂に入った。
月白はメニューをじっくり眺めている。
「決まった?」
「まだです」
「どれも食べたい?」
「少しだけ」
林夏は真剣な顔でメニューを見る。
「じゃあ、三つ頼もう」
「食べきれますか?」
「たぶん」
「また、たぶんです」
結局、二人で三品を頼んだ。
料理が運ばれてくると、二人は少しずつ分けながら食べた。
食べ終わる頃には、月白が小さく息を吐いた。
「少し食べすぎました」
「俺も」
「林夏が三つ頼もうと言ったんですよ」
「そうだった」
「責任を取ってください」
「じゃあ、次は少なめにする」
「それでいいです」
月白は笑った。
食事を終えて店を出る。
「楽しかったです」
「まだ昼だけど」
「それでも」
「じゃあ、この後も楽しもう」
「はい」
***
午後。
二人は海辺の小さな水族館へ入った。
薄暗い館内を歩きながら、月白は水槽を眺めていた。
青い光の中を、魚がゆっくり泳いでいる。
林夏は一匹の魚を指差した。
「これ、月白に似てる」
月白が振り返る。
「どこがですか?」
「静かなところ」
「それだけ?」
「あと、ラーメンを食べないところ」
月白は呆れた顔をした。
「それは魚だからでしょう」
「そうだった」
「もう……」
月白は笑った。
別の水槽の前で、二人は足を止めた。
二匹の魚が並んで泳いでいる。
一匹が少し離れると、もう一匹も後を追う。
月白はしばらくそれを見ていた。
「林夏」
「ん?」
「好きな人には、必ず気持ちを伝えなければいけないのでしょうか」
林夏は水槽を見たまま答えた。
「必ずじゃないと思う」
「どうして?」
「伝えるかどうかも、自分で決めることだから」
月白は黙った。
「でも、伝えなかったら後悔するかもしれない」
「その時は、後から伝えればいい」
「後からでも?」
「うん」
林夏は笑った。
「人間って、選び直せるだろ」
月白はその言葉を静かに繰り返した。
「選び直せる……」
「もちろん、相手にも選ぶ権利はあるけど」
「はい」
月白は水槽の中を見る。
「それなら、少し安心します」
***
夕方。
海辺のベンチに二人で座っていた。
風が少し冷たくなってきた。
月白は鞄の中から小さな紙袋を取り出した。
「林夏」
「ん?」
「これ」
林夏が受け取る。
「開けていい?」
「はい」
中には、小さな波の形をしたキーホルダーが入っていた。
「海?」
「今日の記念です」
月白は少し照れながら言った。
「今日、私が決めた場所だったので」
林夏はキーホルダーを眺めた。
「ありがとう」
「気に入りましたか?」
「うん」
林夏はすぐに自分の鞄へ取り付けた。
月白はそれを見て、嬉しそうに笑った。
「よかった」
「じゃあ、俺からも」
林夏は鞄の中から小さな猫のキーホルダーを取り出した。
月白が目を丸くする。
「これ……」
「前に買ったやつ」
「まだ持ってたんですね」
「もちろん」
月白はそれを受け取った。
手の中でしばらく眺める。
「……嬉しいです」
「じゃあ、つける?」
「はい」
月白は自分の鞄に猫のキーホルダーをつけた。
二人の鞄には、それぞれ違うキーホルダーが揺れていた。
***
帰りの電車。
月白は窓の外を眺めていた。
海が少しずつ遠ざかっていく。
「今日は、楽しかったです」
「俺も」
「また来たいです」
「また来よう」
月白は少し考えた。
「次は、もっと別の場所に行きたいです」
「いいよ」
「今度も私が決めてもいいですか?」
林夏は笑った。
「もちろん」
「では、また考えておきます」
「楽しみにしてる」
月白は小さく頷いた。
しばらくして、月白が手を伸ばした。
林夏の手に触れる。
そのまま、ゆっくり握った。
林夏も握り返す。
月白は少しだけ肩を寄せた。
「今日は」
「ん?」
「自分から誘ってよかったです」
「うん」
「また誘ってもいいですか?」
「何回でも」
月白は笑った。
「では、次も私から誘います」
「分かった」
電車は夜の街へ入っていく。
月白は窓に映る二人の姿を見た。
以前なら、そこに意味を探していた。
これは運命なのか。
この人と出会ったことには、決められた理由があるのか。
この関係はいつまで続くのか。
今は違った。
今日は、自分が誘った。
自分が行きたい場所を選んだ。
自分が楽しいと思った。
そして今、自分から手をつないでいる。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
【今日の選択:本人による選択】
【関係:継続】
【次回の提案:月白】
【未来:未確定】




