第112章 明日の約束
翌朝。
林夏が店のシャッターを開けると、すでに月白が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日はもっと早いな」
「昨日、明日も来ると言いましたから」
「なるほど」
林夏は頷いた。
「じゃあ、約束を守ったわけだ」
月白は少しだけ笑った。
「はい」
林夏は店の中へ戻り、昨日の残りのパンを二つ持ってきた。
「朝ご飯」
「またこれですか?」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「じゃあ問題なし」
二人は店の前に並んで座った。
朝の街はまだ静かだった。
通勤する人たちが少しずつ増えていく。
月白はパンを食べながら、ふと思った。
以前なら、こういう時間にも意味を探していた。
これは運命なのか。
この出会いには何か理由があるのか。
この人と一緒にいることは、正しいのか。
けれど今は違う。
パンはただのパンだった。
朝はただの朝だった。
林夏はただ隣にいる。
それだけだった。
「月白」
「はい?」
「今日、本屋に行くんだよな」
「はい」
「その前に飯」
「……やっぱり食べるんですね」
「本屋より大事」
月白は笑った。
「それなら、先に決めておきましょう」
「何を?」
「お昼ご飯」
「いいね」
二人は真剣に昼食について相談し始めた。
まるで、それが世界で一番重要な問題であるかのように。
***
昼前。
店に一人の青年が入ってきた。
手には古い指輪があった。
「これ、直せますか?」
林夏は受け取った。
「見てみます」
指輪には細い亀裂が入っていた。
青年は少し迷ったあと、言った。
「彼女からもらったものなんです」
「なるほど」
「でも、最近、別れようって言われました」
林夏は指輪を見る。
「それで?」
「これだけでも直したくて」
林夏は少し考えた。
「指輪は直せる」
「……はい」
「でも、二人の関係までは直せない」
青年は苦笑した。
「そうですよね」
「だから、指輪だけ預かる」
「それでいいです」
林夏は頷いた。
青年が帰ったあと、月白が言った。
「林夏は、いつもそうですね」
「何が?」
「直せるものと、直せないものを分ける」
「だって、そうしないと壊れるから」
「人間関係も?」
「人間関係は……」
林夏は少し考えた。
「直すものじゃなくて、二人で決めるものじゃない?」
月白は黙った。
その言葉を、しばらく考える。
「……そうですね」
そして、少しだけ笑った。
「私も、自分で決めます」
「何を?」
「何でも」
「じゃあ昼飯も?」
「はい」
「何食べたい?」
月白は即答した。
「ラーメン」
「成長したな」
「何ですか、それ」
二人は笑った。
***
午後。
二人は約束通り、本屋へ向かった。
店内を歩きながら、月白は一冊の本を手に取った。
「これ、面白そうです」
「どんな本?」
「恋愛小説です」
林夏が固まった。
「……恋愛小説?」
「はい」
「俺が読んでも分かるかな」
「読んでみないと分かりません」
「じゃあ買おう」
月白は少し驚いた。
「本当に?」
「うん」
「林夏、こういう本に興味ありました?」
「月白が読むなら、俺も読んでみる」
月白は本を胸に抱えた。
その顔は、少し嬉しそうだった。
「じゃあ、一緒に読みましょう」
「うん」
店を出たところで、月白が立ち止まった。
「林夏」
「ん?」
「次は私が本を選びます」
「いいよ」
「その次は、林夏が選んでください」
「分かった」
「交代です」
「じゃあ、これも約束?」
月白は頷いた。
「はい」
林夏は笑った。
「約束が増えてきたな」
月白も笑った。
「嫌ですか?」
「まさか」
二人は並んで歩き出した。
少しして、月白が自然に手を伸ばした。
林夏の手を取る。
今日は人混みではない。
道も広い。
離れる理由はない。
それでも、月白は手をつないだ。
林夏も何も言わなかった。
ただ、その手を握り返した。
***
同じ頃。
紅葉と七番は、古い資料室にいた。
七番が一枚の記録を机に置く。
「見つけた」
紅葉が覗き込む。
そこには、短い記述が残っていた。
【関係固定後】
【本人による変更を確認】
【観測継続】
紅葉は眉を寄せる。
「これ……」
「うん」
「変更されたのに、記録が消えてない」
「そう」
七番は言った。
「つまり、昔の機構は、変更そのものを異常として扱っていなかった可能性がある」
「じゃあ、いつから変わったの?」
「そこが分からない」
紅葉は記録を裏返した。
何もない。
「じゃあ、探すしかないね」
「うん」
少し沈黙してから、紅葉が言った。
「七番」
「何?」
「もし、昔の私たちが本当に何かを約束していたとしても」
「うん」
「今の私が、その約束を守る必要はないよね」
七番はすぐには答えなかった。
そして、
「ないと思う」
と言った。
紅葉は少し笑った。
「よかった」
「でも」
「何?」
「今の俺が、今の紅葉と何かを約束するなら」
紅葉が彼を見る。
七番は続けた。
「それは、今の俺たちが決めればいい」
紅葉はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……それなら、考えてもいい」
何の約束なのか。
まだ二人には分からない。
だからこそ、急いで名前をつける必要もなかった。
***
夕方。
万事修理店に戻ると、林夏は修理した指輪を箱に入れた。
月白が横から覗く。
「直りました?」
「うん」
「よかったですね」
「持ち主がどうするかは分からないけど」
林夏は箱を閉じた。
「少なくとも、これで選べるようにはなった」
月白はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
選べる。
それは、思っていたより大切なことだった。
未来が分からなくてもいい。
正解が分からなくてもいい。
選んだあとで、また変えてもいい。
今日を選ぶ。
明日を選ぶ。
誰かと一緒にいることを選ぶ。
一人になることを選ぶ。
そのどちらも、自分で決めればいい。
月白は林夏の隣に座った。
「林夏」
「ん?」
「明日も来ます」
「うん」
「明後日も、来るかもしれません」
林夏は笑った。
「その時は、その時で決めればいい」
月白は頷いた。
「はい」
窓の外が暗くなっていく。
二人は手をつないだまま、しばらく何も話さなかった。
明日が来る保証はない。
約束が永遠になる保証もない。
それでも。
今日、約束した。
それで十分だった。
【関係:継続】
【約束:本人による選択】
【固定:なし】




