第106章 隣にいる理由
翌朝。
万事修理店の前に、月白が立っていた。
手には昨日もらった猫のキーホルダー。
鞄につけたままになっている。
林夏が扉を開けた。
「おはよう」
「おはよう」
林夏はキーホルダーを見る。
「ちゃんとつけてる」
「うん」
「気に入った?」
「気に入った」
「よかった」
月白は少し笑った。
「今日は何を食べる?」
「朝から?」
「昨日、約束したから」
「まだ朝だよ」
「だから朝ご飯」
「なるほど」
林夏は店の奥へ戻る。
「じゃあ、今日は僕が作る」
「何?」
「分からない」
「……」
「冷蔵庫を見てから決める」
月白は笑った。
「林夏らしい」
*
昼。
紅葉が店に来た。
「七番から連絡があった」
月白が顔を上げる。
「何か分かった?」
「昔の施設に、もう一つ記録があったらしい」
林夏が工具を置く。
「どんな記録?」
紅葉は端末を開いた。
「命軌修正機構が、昔どうやって『異常な関係』を扱っていたか」
澪も奥から出てきた。
「見せて」
紅葉が画面を向ける。
そこには短い記録があった。
【予測不能な接触を確認】
【関係形成を継続観測】
【本人の選択による変化を記録】
澪が眉を寄せる。
「……最初から固定するつもりだったわけじゃない」
紅葉が頷く。
「そうみたい」
月白が画面を見る。
「じゃあ、いつから変わったの?」
「そこまでは分からない」
林夏は椅子に座ったまま考える。
「最初は、ただ観察してたのかな」
「たぶん」
澪が答える。
「でも、途中から『観測すること』と『変えること』の区別がなくなった」
紅葉は黙った。
「それなら」
月白が言う。
「私たちが今、やっていることも観測されている?」
澪は答えなかった。
しばらくして。
「可能性はある」
林夏が立ち上がった。
「じゃあ」
「うん?」
「普通にしてればいいんじゃない?」
全員が林夏を見る。
「……普通に?」
「うん」
林夏は冷蔵庫を開けた。
「昼飯、何食べる?」
紅葉が呆れた顔をする。
「話を聞いてた?」
「聞いてたよ」
「じゃあ、どうしてそうなるの?」
「だって」
林夏は冷蔵庫の中を覗きながら言った。
「観測されてるかどうかなんて、今の僕たちには分からない」
「うん」
「分からないものを気にして、今日の飯までまずくする必要ないでしょ」
月白が小さく笑った。
「それもそうね」
紅葉もため息をつく。
「……本当に、その考え方でいいのか分からない」
「僕も分からない」
「分からないのに?」
「うん」
林夏は振り返った。
「だから、今できることをやる」
*
午後。
月白は店の外で本を読んでいた。
林夏は修理を続けている。
しばらくして。
月白が顔を上げた。
「林夏」
「ん?」
「昨日の話」
「どの話?」
「私たちのこと」
林夏は工具を置いた。
「うん」
「私は、まだ名前をつけなくてもいいと思ってる」
「僕も」
「でも」
月白は少し迷う。
「名前がないからって、何もないわけじゃないよね」
林夏は少し考えた。
「うん」
「じゃあ」
月白は本を閉じた。
「今の私たちは、何?」
林夏は困ったように笑った。
「難しい質問だな」
「分からない?」
「分からない」
月白は少し笑う。
「また?」
「うん」
「林夏、分からないこと多いね」
「そうかな」
「多い」
「じゃあ」
林夏は月白を見る。
「隣にいる人」
「……それだけ?」
「今は、それが一番しっくりくる」
月白はしばらく黙った。
そして。
「それ、嫌じゃない」
「僕も」
*
夕方。
紅葉は七番と待ち合わせをしていた。
古い駅の裏。
以前二人がよく通っていた場所だった。
七番が来る。
「待った?」
「少し」
「ごめん」
「いい」
紅葉は古い階段を見る。
「ここ、変わってないね」
「うん」
二人は並んで歩いた。
しばらくして。
七番が言った。
「一つ聞きたい」
「何?」
「もし、昔の記録に」
「うん」
「俺たちの関係が『固定』された記録があったら」
紅葉は立ち止まる。
「どうする?」
「私は見ない」
七番が驚く。
「見ない?」
「うん」
「どうして?」
「それが今の私を決める材料になってほしくないから」
紅葉は自分の鞄を見る。
そこには。
昨日返された赤い髪留めが入っている。
「昔のことは知りたい」
「うん」
「でも」
紅葉は七番を見る。
「昔が今より正しいとは限らない」
七番は静かに頷いた。
「そうだね」
「あなたは?」
「俺も」
「じゃあ、調べる?」
「うん」
「でも、答えを探すためじゃなくて」
「何のため?」
紅葉は少し笑った。
「自分で決めるため」
七番も笑った。
「分かった」
*
夜。
店を閉める時間になった。
月白が鞄を持つ。
「帰るね」
「うん」
店を出る。
二人で歩く。
今日は少しだけ距離が近い。
月白が言った。
「ねえ」
「ん?」
「明日も来ていい?」
林夏は笑う。
「毎日来てるじゃん」
「そうだけど」
「来ればいいよ」
「……うん」
月白は少し歩いた。
それから。
林夏の袖をつまむ。
林夏が見る。
「どうしたの?」
「別に」
「何かある?」
「ない」
「じゃあ、なんで?」
月白は前を向いたまま答えた。
「今日は」
少しだけ間を置く。
「隣にいたいから」
林夏は何も言わなかった。
ただ。
歩く速度を少しだけ落とした。
月白も。
それに合わせた。
二人の間に。
新しい約束はなかった。
名前もなかった。
未来を決める言葉もなかった。
ただ。
同じ速度で歩いている。
それだけだった。
そして今は。
それで十分だった。




