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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第十章 会いたくなかった人

倉庫の中には、まだ戦いの痕跡が残っていた。


 壊れた修正執行体。


 散らばった工具。


 床に残った青白い光。


 そして、三人の前に転がっている黒い結晶。


 林夏は結晶を見つめた。


「……あの人って、誰?」


 月白は答えなかった。


「知り合い?」


「……」


「元恋人?」


「違う」


 返事だけは早かった。


 林夏は少し驚いた。


「じゃあ、元夫?」


「違う」


「借金取り?」


「違う」


 紅葉が横から言った。


「あなた、そういう発想しかないの?」


「修理屋だから」


「関係ないでしょう」


「人間関係って、だいたい借金か恋愛か仕事じゃない?」


「偏りすぎ」


 月白は二人の会話を聞いていた。


 そして、ほんの少しだけ笑った。


 けれど、その笑顔はすぐに消えた。


「彼は……私の昔の知り合い」


「昔?」


「うん」


 月白は黒い結晶を拾い上げた。


 触れた瞬間。


 結晶の中に、また映像が浮かんだ。


 白い部屋。


 窓のない場所。


 その中央に、一人の少年が立っている。


 今より若い月白が、その少年と向かい合っていた。


『君は、何を望む?』


 少年が聞いた。


 月白は答えた。


『普通に生きたい』


『それは難しい』


『どうして?』


『君の命軌は、普通ではないから』


 映像が揺れる。


 少年は月白に一枚の紙を渡していた。


『これに署名すれば、君の命軌は安定する』


『代わりに?』


『僕の言う通りに生きてくれればいい』


 月白は紙を見つめていた。


 そして――


 署名した。


 映像が途切れる。


 林夏は黙っていた。


 紅葉も何も言わない。


 しばらくして、月白が口を開いた。


「彼は、私を助けてくれた人だった」


「昔は?」


「うん」


「今は?」


 月白は答えなかった。


 その沈黙が、答えのようだった。


 林夏はそれ以上聞かなかった。


 代わりに、黒い結晶を指差した。


「これ、危なくない?」


「分からない」


「じゃあ、捨てる?」


「待って」


 月白が止める。


「これは、私の過去を知る手掛かりになる」


「なら、持っておこう」


「いいの?」


「うん」


 林夏は結晶を拾った。


「ただし」


「ただし?」


「俺が持つ」


「どうして?」


「君、さっきから顔色悪いから」


「……」


「無理して持つ必要ないだろ」


 月白はしばらく林夏を見た。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 紅葉が二人を見ていた。


「……」


「何?」


 林夏が聞く。


「別に」


「何か言いたそうだけど」


「気のせい」


「本当に?」


「本当に」


 紅葉は顔を背けた。


 そのときだった。


 倉庫の外から、車の音が聞こえた。


 三人は同時に警戒した。


 林夏が入口へ向かう。


 紅葉が刃を握る。


 月白も立ち上がる。


 しかし。


 外から聞こえてきた声は、意外にも穏やかだった。


「月白」


 三人の動きが止まった。


「そこにいるんだろう?」


 月白の顔が変わった。


 林夏は彼女を見る。


「この声……」


「……彼」


 月白が呟いた。


 紅葉が窓の隙間から外を見る。


 雨の中。


 一人の男が立っていた。


 黒い傘。


 白いコート。


 整った顔。


 穏やかな笑顔。


 その姿だけを見れば、敵には見えなかった。


 むしろ。


 誰よりも優しそうだった。


 男は倉庫の入口へ歩いてくる。


「月白」


 もう一度、名前を呼ぶ。


「迎えに来た」


 月白は動かなかった。


 林夏が小さく聞いた。


「名前は?」


「……白澤」


 その名前を聞いた瞬間。


 紅葉の表情も変わった。


「白澤?」


「知ってる?」


 林夏が聞く。


「命運修正機構の上位執行官」


 紅葉が答えた。


「私たちの上司より、さらに上」


「そんなに偉い人?」


「そう」


 林夏は少し考えた。


「じゃあ、面倒だな」


 紅葉は頷いた。


「かなり」


 外から、白澤の声が聞こえる。


「月白」


「……」


「君は疲れている」


「……」


「もう十分だろう」


 月白の手が震えた。


「戻っておいで」


 白澤の声は優しかった。


 責めるような声ではない。


 怒ってもいない。


 ただ。


 帰ってくることを当然のように求めている。


「君の命軌は、僕が安定させる」


 月白は目を閉じた。


「君は、何も心配しなくていい」


 林夏は黙っていた。


 そして、月白を見る。


「月白」


「……何?」


「帰りたい?」


 月白は目を開いた。


 白澤の声が、雨の向こうから響いている。


「君のためだ」


「……」


「君を苦しませたくない」


「……」


「僕なら、君を守れる」


 月白は長い間、黙っていた。


 そして。


 小さく首を横に振った。


「帰りたくない」


 林夏は何も言わなかった。


 紅葉も動かなかった。


 ただ、月白自身が言ったその言葉だけが、倉庫の中に残った。


 外の白澤は、しばらく黙っていた。


 そして。


 初めて、笑顔が消えた。


「……そうか」


 静かな声だった。


「なら、仕方ない」


 白澤が傘を閉じる。


 その瞬間。


 空気が変わった。


 雨粒が、空中で止まった。


 月白が息を呑む。


「命軌固定……」


 紅葉が刃を構える。


「全員、下がって!」


 林夏だけが動かなかった。


 目の前で。


 世界そのものが、静止し始めていた。


 白澤は雨の中で、静かに言った。


「月白」


「君が自分で選んだというなら――」


 白澤の目が、初めて冷たくなる。


「僕も、自分で選ぶよ」


 そして。


 止まっていた雨が、一斉に落ちた。

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