第9話:盗品の使い道
「その手帳を盗め。金はいくらでも出す」
薄暗い地下酒場。
腐った酒とカビの臭いが充満する空間で、アレンは乱暴に革袋をテーブルへ叩きつけた。
ジャラリ、と重い音が鳴る。
中からこぼれた数枚の金貨を見て、向かいに座る男が片眉を上げた。
「勇者様が、裏社会に盗みの依頼とはな。……ターゲットは誰だ?」
「リクトだ」
その名前を口にした瞬間、アレンの顔が屈辱に歪んだ。
フードを深く被った盗賊を睨みつける目は、異様なほど血走っている。聖剣を持つ勇者としての誇りなど、もうどこにもなかった。
「奴が持っている黒いノート……『魔導書』を盗み出せ」
「本か?」
盗賊は鼻で笑い、金貨を一枚つまみ上げて光にかざした。
「そんなもん奪ってどうする」
「決まってる。あの力を手に入れるためだ!」
アレンは指先が白くなるほど強く拳を握りしめた。
脳裏に焼き付いているのは、昨日の光景だ。
弱小ギルドがワイバーンを無傷で討伐したこと。Eランクの小娘が、指一本で自分の聖剣を弾き飛ばしたこと。
――全部、あのノート(魔導書)の力だ。
そうでなければ説明がつかない。あんな無能な荷物持ちに、自分が実力で負けるはずがないのだから。
「なるほどな」
盗賊は皮肉っぽく口の端を歪めた。
「失った女でも、名誉でもなく……本に嫉妬したわけだ」
「黙れッ!」
図星を突かれたアレンが机を叩く。
周囲の客たちが一斉に視線を向けたが、狂気に囚われた彼には気づかない。
「絶対に盗み出せ! これで全部だ!」
アレンはさらにもう一つの革袋を投げ出した。
護衛の報酬は消え、聖剣以外の装備をすべて売り払って作った、なけなしの全財産。それを躊躇いもなく裏社会の男に差し出す。
盗賊は二つの革袋を持ち上げ、重さを確かめるように軽く揺らした。
「……交渉成立だ。明日の夜までに、ブツを持ってきてやるよ」
「どんな鍵だろうが、どんな警備だろうが関係ない。必ず俺の元へ持ってこい……!」
「プロを舐めるな。お前の魔導書、確実に届けてやる」
黒い外套を翻し、盗賊が酒場から消える。
一人残されたアレンの顔に、久しぶりの笑みが浮かんだ。
歪みきった、歓喜の笑みだった。
泥にまみれた顔に、ドス黒い強欲だけが張り付いている。
(見ていろ、リクト……! お前のインチキを奪い取って、俺が最強の勇者に戻ってやる!)
◆ ◆ ◆
ドンッ。
王都の大通りを歩いていた俺の肩に、誰かがわざとらしくぶつかってきた。
「チッ、どこ見て歩いてんだ!」
目深にフードを被った男が吐き捨て、そのまま足早に雑踏へと消えていく。
その一瞬の接触で、上着の右ポケットから手帳の質量が消えた。わずかな布の摩擦音と重心の変化。プロの『スリ』だ。
俺は歩みを一切止めることなく、懐中時計を取り出してカチリと蓋を開ける。
13時51分10秒。
逃走した男の歩幅、重心移動、路地の構造から導き出した確保までの所要時間は3分15秒。手帳を取り返し、街の衛兵に状況を説明する手続きを含めれば、最低でも45分20秒のタイムロスが発生する計算だ。
対して、失った手帳の価値。
あの中に書かれているのは、今日の買い出し予定だけだ。
『14:00 右ルート(タイムセール特売肉)』
『14:05 障害物(おばちゃん軍団)回避』
『14:12 卵の特売トラップ(個数制限)突破』
王都市場のタイムセールを最短距離で回り、予算内で食料を確保するための、ただの節約メモ(買い出しリスト)である。
どこかの馬鹿が裏社会の人間を使って盗ませたのだろうが、他人の買い物の予定を知ったところで、俺のスケジュールには何の影響も及ぼさない。
15秒、16秒。
俺は歩調を一切崩すことなく、頭の中で瞬時に数式を展開し、ひとつの結論を弾き出した。
追跡にかける価値。――ゼロだ。
『0秒で放置』。
俺は男の後ろ姿に一瞥もくれず、上着の左ポケットから全く同じ黒い表紙の『予備の手帳』を取り出した。歩きながらページを開き、カリカリとペンを走らせる。
13時51分25秒。
作業時間は15秒。追跡より圧倒的に早い。
「リクトさん! 荷車の手配、完了しました!」
前方から、エリナが小走りで向かってくる。
その肩は僅かに上下して息をついているが、それは走った疲労からではない。『予定表に0.01秒でも遅れるかもしれない』という強迫観念に近い恐怖と、それに打ち勝って間に合わせた興奮によるものだ。
「予定より0.01秒早いな。優秀だ」
「ありがとうございます!」
俺は手帳を閉じた。
「行くぞ。14時ちょうどの特売肉、1秒の遅れも許されない」
「はいっ!」
俺は時計の秒針を見つめながら、予定通りに歩を進めた。
盗まれた手帳のことなど、俺の脳内からはすでに完全に消去されていた。
◆ ◆ ◆
「手に入れたぞォォォッ!!」
深夜。薄暗い安宿の一室に、アレンの絶叫が響いた。
向かいで盗賊が残りの金貨を数えて立ち去るのも気に留めず、アレンは奪った黒い手帳を高々と掲げる。その目は、狂気じみた興奮で血走っていた。
「見たか! これが奴の強さの秘密、無敵の魔導書だ!」
震える手でページを開く。
そこには、リクトの几帳面な文字で何かの『予定』が書き込まれていた。
『14:00 右ルート(特売肉)』
『14:05 障害物(おばちゃん軍団)回避』
『14:12 卵の特売トラップ突破』
仲間たちが息を呑んで手帳を覗き込む。
「肉……? おばちゃん軍団? 一体なんの暗号ですか?」
「分からないのか、馬鹿者!」
アレンは机を叩き、下劣で歪んだ歓喜の笑みを広げた。
「これは王都近郊の最高難度ダンジョン、『死の迷宮』の無傷突破ルートだ! 『右ルート』へ進めば安全という指示! そして『特売肉』とは、ボスのミノタウロスのことだな!」
「な、なるほど……!」
「さらに『おばちゃん軍団』の回避! これは凶悪なバンシーの群れが出現する罠部屋のことだ。この時間通りに進めば、奴らと遭遇せずにやり過ごせるというわけだ!」
仲間たちが一斉に感嘆の声を漏らす。
誰も本当の意味など理解していない。だが、弱小ギルドがワイバーンを無傷で倒した『異常な光景』を目の当たりにしている彼らは、これが究極の攻略本なのだと完全に狂信してしまっていた。
「はは……ハハハハハッ!」
アレンの笑い声が、やがて狂喜の高笑いへと変わる。
「今度こそ俺たちが英雄だ! この完璧な作戦書通りに進めば無傷で突破できる! あの無能の小細工を暴き、俺たちこそが最強だと世界に証明してやるぞ!」
「勇者様万歳!」
歓声を上げながら、勇者パーティーは深夜の街を飛び出した。
防具すらまともにない軽装で。意気揚々と、自信満々に。
自らが握りしめているものが『ただの買い出しリスト』であり、今から自分たちの足で『死の淵』へと踏み込もうとしていることなど、知る由もないまま――。
『勇者パーティー、最高難度ダンジョン侵入まで――残り3時間。』
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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