第8話:勘違いの再会
「おい、無能! 随分と派手なインチキをやってくれたじゃないか!」
背後から鼓膜を突くような不快な怒声が響いた。
ギルドハウスへと続く裏路地で足を止めると、そこには泥の跡がこびりついた勇者アレンが立っていた。
「どうせあのワイバーンは、最初から死にかけていたか、何か小細工をしたんだろ! 弱小ギルドに倒せるはずがないからな!」
俺は懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けた。
チクタクと規則正しく進む秒針だけを見つめる。
15時41分20秒。
顔を真っ赤にして喚くアレンを尻目に、俺は頭の中で明日の訓練メニューの数式を再計算する。
現実を認められない人間は、自分に都合のいい答えを探す。別に珍しいことではない。
21秒。
22秒。
「おい、聞いてるのか! お前がいなくなってから、少しだけパーティーの調子が悪いんだ。まあ、お前も外で痛い目を見て反省しただろうからな」
アレンは腕を組み、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「特別に荷物持ちとして戻してやる。感謝しろ!」
23秒。
24秒。
秒針は止まらない。
彼らがスライムに負けようが、護衛をクビになって泥水を啜ろうが、俺にとっては路傍の石以下のどうでもいい事象だ。俺の意識は、すでに0.01秒単位のスケジュール調整に向かっている。
「予定がある」
時計の文字盤から一切目を離さず、俺は平坦な声で即答した。
「……は?」
「今のギルドの予定表を作るのに忙しい。お前と話す時間は、そこに入っていない」
俺は小さく欠伸を噛み殺し、彼を完全に空気として扱ったまま、歩き出そうと踵を返した。
「なっ……お前、俺がわざわざ慈悲をかけてやってるのに……っ!」
完全に無視され、屈辱に顔を歪めたアレンがギリッと歯ぎしりを鳴らす。
そのドス黒い怒りが頂点に達しようとしていることすら、俺の計算式には関係のないノイズだった。
「ふざけるなッ!」
背後で、アレンの怒鳴り声が裏路地に響いた。
「お前みたいな無能が、俺の誘いを断るだと!? 予定表だと!? そんな紙切れが、俺たち勇者パーティーより大事だって言うのか!」
25秒。
26秒。
俺は時計の秒針を眺めたまま歩を進める。
明日の採集班は三人。エリナの剣術訓練は一時間二十分。荷車の積載量と昨日の雨によるぬかるみを考慮すると、木箱は二つ減らした方が全体の効率がいい。
「おい、待てと言ってるだろ!」
肩を掴もうと、アレンの手が背後から伸びてくる。
俺は歩調を変えず、半歩だけ横にずれた。
それだけで、勇者の手は無様に空を切る。
「……チッ。誰のおかげで勇者パーティーにいられたと思ってる!」
「知らないな。少なくとも、お前ではない」
29秒。
30秒。
俺は歩きながら懐から分厚い手帳を取り出し、新しい予定を書き込むためにページを開いた。
その瞬間だった。
アレンの視線が、俺の手帳に吸い寄せられた。
ほんの一瞬。だが、確かに見た。強烈な嫉妬と、泥水のような執着が混ざった目だ。
「……そのノート」
「?」
「やっぱりそれか」
アレンが、勝ち誇ったように低く呟く。
「お前のインチキの種は、その魔導書だな?」
俺は手を見る。
そこに書かれているのは、明日の訓練内容、素人の歩幅の調整、荷車の積み方、休憩時間の数式だ。ただの算数ノートである。
だが、現実を直視できない人間は、常に自分に都合のいい答えを捏造する。
弱小ギルドが勝てたのは、俺の実力ではない。そのノートに『魔法の力』があるからだ、と。
「なるほどな。そういうことか」
怒りに震えていたアレンの顔に、歪んだ笑みが浮かぶ。
まるで、とんでもない宝の在り処を見つけた盗賊のような目だった。
31秒。
32秒。
俺は手帳を閉じ、完全に興味を失って再び歩き出す。
「おい、無視するな! それを寄越せ、リクトォォッ!!」
完全に逆上したアレンの怒声と共に、耳障りな金属音が路地に響き渡った。
抜刀の音。
殺意を込めた勇者の剣閃が、背後から俺の首筋へと迫る。
だが、俺は振り返らない。
時計の秒針は、33秒を指していた。
キンッ!!
乾いた風を切り裂き、硬質な高い音が路地に響く。
「ぐっ……なっ、なんだと……っ!?」
自分の手から聖剣が弾き飛ばされたことすら理解できず、アレンは目を見開いて硬直した。
ガラン、と音を立てて石畳に転がったのは、勇者の証であるはずの聖剣。
俺とアレンの間には、安物の双剣を構えたエリナがいつの間にか割り込んでいた。肉眼で追うことすら不可能な神速のステップだ。
「リクトさんの予定を乱すノイズ。……0.02秒で排除します」
エリナの静かな声が、凍りついた路地に響いた。
彼女は神速で間合いを詰めた勢いを利用し、鞘に添えた人差し指一本で、アレンの剣の腹を的確に弾き飛ばしただけだった。
「嘘だろ……指一本で、俺の全力を……っ」
大の男が殺意を込めて振り下ろした一撃が、華奢な少女にあっさりと無力化された。
腰を抜かして尻餅をつくアレンを見下ろし、エリナは無表情のまま一歩踏み出す。
「ひっ!?」
「0.31秒後、右へ逃げますね」
エリナが淡々と告げた直後、アレンは恐怖から反射的に右へ這いずって逃げた。
だが、その顔の真横には、すでにエリナの鞘の先端がピタリと突きつけられていた。
「なっ……」
「予測通りです。肩の筋肉の収縮と重心移動。数式通りの動きですね」
アレンの額から、おびただしい冷や汗が流れ落ちる。
勝てない。本能が理解していた。目の前の少女は、もう自分が知る『Eランクの弱者』ではない。
「……34秒。エリナ、予定表からの許容誤差は0.01秒だ。少し遅いぞ」
俺は懐中時計の秒針から目を離さず、平坦な声で告げた。
「申し訳ありません、リクト様! 踏み込み時の、石畳の摩擦係数の計算にわずかなズレが……っ!」
氷のように冷酷だったエリナが、途端に血相を変えて深く頭を下げる。
勇者を無傷であしらっておきながら、彼女にとっての最大の絶望は、俺の数式からほんのわずかにズレることらしい。
「まあいい。明日の訓練で修正しろ」
「はいっ! 必ずや、リクト様の完璧な計算にこの身を合わせてみせます!」
狂信的な光を瞳に宿し、エリナは恭順の姿勢をとる。
その常軌を逸した光景を前に、アレンはガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。
そして、彼の濁った視線が、俺が懐にしまおうとしている『手帳』に釘付けになる。
「極限の計算……数式……」
アレンは掠れた声で呟いた。
「全部……全部、その『魔導書』の力なんだ……! それさえあれば、俺だって……っ!」
ドス黒い嫉妬と強烈な強欲。
そんな路傍の石ころの感情など、俺の視界には一ミリも映っていない。
「行くぞ、エリナ。15時45分から木箱の積み込みだ。1秒の遅延も許さない」
「はっ!」
俺は懐中時計を閉じ、へたり込む勇者を完全に無視して、裏路地を歩き出した。
遠ざかる二人の背中と、泥水に塗れた己の惨めな姿。
アレンは震える手で石畳を掻きむしり、血走った目で暗い裏路地を睨みつけた。
(絶対に……絶対にあの『魔導書』を奪って、俺の力を証明してやる……ッ!)
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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