第5話:奇跡のノーダメージ討伐
「グォォォォォォォッ!!」
鼓膜を破らんばかりの咆哮が、岩山に木霊した。
見上げるほど巨大な赤銅色の肉体。一撃で馬車を粉砕するほどの膂力と、分厚い鋼すら貫く爪を持つ、Bランクの大型魔物『レッドオーガ』だ。
万年下位ランクのギルド員たちにとっては、本来なら出会った瞬間に死を覚悟する絶望の象徴である。
現に前衛に立つ男たちの足は、生まれたての子鹿のようにガクガクと震えていた。
「ほ、本当にこれを俺たちが狩るのか……?」
「予定時刻まであと10秒だ。雑談している暇はないぞ」
俺は手元の懐中時計を見つめたまま、平然と声をかける。
恐怖に顔を青ざめさせながらも、エリナたちは配られた分厚い羊皮紙を強く握りしめていた。
俺が渡した今日の『予定表』には、剣の振り方など一切書かれていない。
『戦闘開始2分後、全員右へ3歩移動』
『3分10秒、しゃがむ』
『3分15秒、靴紐を結び直す』
およそ命懸けの戦闘とは思えない、ふざけたような指示の羅列だ。
一人の槍使いが、引き攣った笑いを浮かべる。
「靴紐って……こんなの、オーガの目の前でやるんですか?」
「やる」
俺は懐中時計の秒針を見つめたまま、短く返した。
理由を説明する必要はない。敵の筋肉の動き、風向き、地面の傾き、魔力の流れ。すべて計算済みだ。
必要なのは理解ではなく、一秒も狂わず実行することだけ。
あの無能な勇者なら「俺を馬鹿にしているのか」と怒り狂って紙を破り捨てていただろう。
だが、昨日の圧倒的な成功体験を経た彼らは違う。
「……私は、信じます」
エリナが予定表を胸に抱き、力強く頷いた。
その一言で、現場の空気が変わる。
「そうだな……! リクトさんの指示通りに動けば絶対に死なない!」
「俺たちは強いから勝てるんじゃない。予定表のおかげだ!」
震えていた手が、少しずつ武器を握り直していく。
恐怖は消えていない。それでも誰一人、予定表を閉じようとはしなかった。自分の弱さを知っているからこそ、俺の計算に文字通り命を預ける覚悟を決めたのだ。
(いいぞ。お前たちは一秒の狂いもなく噛み合う完璧な歯車だ)
俺は時計をパチンと閉じ、悠然とレッドオーガを指差した。
「時刻は14時ちょうど。作戦開始だ。最初の指示を実行しろ」
「グォォォォォォォッ!!」
レッドオーガが丸太のような棍棒を大きく振りかぶる。
大気を裂く轟音と共に、必殺の薙ぎ払いが前衛たちに迫った。
「ひっ……!」
誰もが死を覚悟し、思わず目を閉じた。
「――14時3分10秒。しゃがめ」
俺の指示で、全員が一斉に腰を落とす。
直後、ブォンッ! と凄まじい風圧が頭上を通り過ぎていった。
前衛の頭の毛を数ミリかすめるだけの、完璧な絶対回避だ。
「な、なんだと……!? 当たらなかった……っ!」
「休むな。14時3分15秒。指示通り靴紐を結び直せ」
驚愕する彼らに、俺は手元の懐中時計を見ながら平然と告げる。
言われた通り、震える手で靴紐に触れようと前屈みになるギルド員たち。
その前傾姿勢が、オーガの怒り狂った二撃目――鋭い蹴りを、またしてもミリ単位でやり過ごした。
完全に空を切り、オーガの巨体が大きく体勢を崩す。
「14時3分18秒。そのまま前へ剣を突き出せ」
エリナたちが指示通り、指定された空間へただ武器を突き出した。
直後、ズドンッ! という重い音が響き渡る。
「グガァァァァッ……!?」
自ら体勢を崩して倒れ込んできたオーガの喉笛に、全員の剣が深々と突き刺さっていた。
巨大な赤銅色の肉体が地響きと共に倒れ伏し、完全に沈黙する。
「う、嘘だろ……。俺たち、しゃがんで靴紐を結んで、剣を出しただけで……」
「Bランクの魔物を、完全無傷で……っ!」
信じられない現実に、ギルド員たちは次々と武器を取り落とし、その場にへたり込んだ。
そしてポロポロと大粒の涙を流し、全員が俺に向かって拝むように両手を合わせ始める。
「か、神様……っ! リクト様は本物の軍神様だぁぁっ!」
「リクトさん……! 本当に奇跡なんですね……!」
「違う」
俺は倒れたレッドオーガを一瞥し、懐中時計をパチンと閉じた。
「算数だ」
その一言に、ギルド員たちはますます涙を流しながら、俺へ向かって深々と頭を下げた。
◆ ◆ ◆
「金貨だぁぁぁぁっ!」
ギルドの解体場に、割れんばかりの歓声が響き渡った。
巨大なレッドオーガから切り出された角、魔石、皮、牙。希少素材が次々と査定台へ運ばれ、そのたびにギルド職員の声が裏返る。
「ぜ、全部合わせて……金貨150枚です!」
一瞬の静寂。次の瞬間、『落ち葉の剣』のギルド員たちは爆発したように飛び跳ねた。
「ひゃ、150枚!?」
「俺たちが一生かかっても稼げない金額だぞ!」
「酒だ! いや、全員分の新しい防具が買える!」
エリナは目に涙を浮かべながら、大切そうに金貨の山を両手ですくい上げている。
昨日まで依頼板の端に貼られた安仕事しか受けられなかった弱小ギルド。その倉庫には今、眩いばかりの富が積み上がっていた。
――一方、その頃。王都の裏路地にて。
「……くそっ! なんで勇者の俺が、こんな真似を……っ!」
勇者アレンは悪臭を放つ泥水を蹴り上げ、屈辱に顔を歪めていた。
身につけているのは、鎧ですらない薄汚れた私服。防具は莫大な修理代が払えず、武具屋に没収されたままだ。
彼らが受けている今日の依頼は、報酬が銀貨数枚の最低ランク。『下水道に繁殖した汚泥スライムの駆除』である。
ベチャッ!
「うわっ、臭ぇ!」
「おい見ろよ、あいつら本当に勇者パーティーか? ただのドブさらいじゃないか」
「近寄るな、下水の臭いが移るぞ」
「クスクス……」
通りすがりの町人たちから容赦ない嘲笑を浴び、アレンが下唇を噛み破る。
リクトの『ヘイト管理』なしに戦えば、防具が鉄クズになるのは当然の理屈だった。装備を失えばまともな依頼は受けられず、こうして這いつくばって泥をすするしかなくなる。
プライドだけは高かった勇者の、完全な没落だった。
泥まみれの勇者が這いつくばるその頃。
街の反対側にある『落ち葉の剣』では、ギルド員たちの笑い声が夜遅くまで鳴り響いていた。
◆ ◆ ◆
「さて、騒ぐのはそのくらいにしておけ」
俺はあっさりと彼らに背を向け、手元の真新しい羊皮紙を引き寄せる。
もはや、あの無能どもの惨状など俺の計算式には必要ない。
「次は隣山のワイバーンだ。明日の15時24分に撃ち落とす。お前ら、予定表を作るぞ」
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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