第38話:最強軍師の次なる日常(第2部:完)
「リクト殿! どうか我が国へ! 報酬は白金貨1000枚、いや、領地を一つ丸ごと用意しますぞッ!」
「ふざけるな、リクト様は我が帝国の筆頭軍師になられるお方だッ!」
「勇者アレンの代わりに、どうか我が国の最高戦力にッ!」
アジトの窓の外からは、朝から途切れることなくやかましい怒声が響き続けていた。
魔王軍幹部をたった一つのギルドが討ち取ったという事実は、一晩で王都中を狂乱の渦に叩き込んだらしい。各国の使者や貴族たちがアジトを取り囲み、俺の引き抜きに血眼になっている。
だが、そんなものは俺の予定表に一切影響しない。
「殻の厚さ、約0.3ミリ。運搬時の衝撃による微細なマイクロクラック、0。表面の汚れ、0。完璧だ」
「はいっ! 1個も割らずに持ち帰りました!」
誇らしげなエリナからパックを受け取り、俺は特売の卵を1個ずつ、頭上の眩い魔力光へと真っ直ぐにかざして確認する。
光に透かされた美しい黄金色の輪郭を見上げながら、俺は満足げに頷いた。
そして最も温度変化の少ない奥の段へと慎重に並べ、静かに冷蔵庫の扉を閉めた。庫内の温度は常に摂氏4度に保たれている。卵の鮮度を維持し、明日のオムレツの仕上がりを逆算するには極めて最適な環境だ。
「英雄殿! 報酬はさらに上乗せする!」
「王国最高位の爵位も用意するぞ!」
外ではまだ、国家の覇権すら左右する莫大な条件が飛び交っている。
「リクト様、外がすごく騒がしいですね。窓を閉めておきましょうか?」
「ああ。室温が変化して卵が傷むと困るからな」
俺は外の狂騒を、窓辺で喚く羽虫と同じ『ただの環境音』として完全に切り捨てた。
どれほど莫大な金や地位をひけらかされようと、俺の感情は微塵も動かない。俺にとって重要なのは、世界情勢の変化ではなく、特売の卵が無傷で冷蔵庫に収まったという事実だけだ。
「卵の残量は現在12個。3日後には新しいパックの補充が必要になるな」
「はい! 次の特売日もしっかり予定表に組み込んでおきます!」
俺は手元の予定表に赤ペンでチェックを入れ、真っ新なページをめくった。
盤面を乱すノイズを処理し、計算通りに完璧な日常を回す。俺の意識はすでに、明日の最重要タスクへと切り替わっている。
「明日は10時00分から、キッチンの大掃除を決行する」
俺の宣言に、エリナが目を輝かせてメモ帳を取り出した。
「換気扇の油汚れ、排水溝の滑り、コンロの焦げ付き。これらを放置すれば油分が酸化し、キッチンの空気の屈折率や匂いの数値を狂わせる。俺の作るオムレツの塩分濃度0.8パーセントの完璧なバランスを阻害する、最悪のデバフ(ノイズ)になりかねない」
「はいっ! リクト様のお料理のために、1ミリの汚れも残さず徹底的に綺麗にします!」
世界がどれだけ俺を求め、富や権力を差し出そうと関係ない。俺にとっての最優先事項は、国家の覇権よりも明日の『大掃除』の段取りを完璧に計算し尽くすことだ。
「油汚れに対するアルカリ性洗剤の浸透時間を15分と仮定する。洗浄用の湯の温度は摂氏40度を維持しろ。それ以下だと分解速度が落ちる」
「了解です! お湯が冷めないよう、魔法石の火力もきっちり調整しておきますね!」
俺は洗剤の分解速度と水温を因数分解し、最も効率的なタイムスケジュールを予定表へ淡々と書き込んでいく。盤面の支配において、俺の狂気的なまでの完璧主義は、1秒のタイムロスも許すつもりはない。
「10時30分、床板の清掃。隙間に溜まった埃の除去手順も組み込んでおく。見えない部分の確認も必須だ」
分刻みの工程表を書き上げ、俺は静かに予定表を閉じた。
金貨も爵位も軍の権限も、明日のキッチンには一切必要ない。俺に必要なのは、予定通りに掃除を完璧に終わらせることだけだ。
◆ ◆ ◆
予定表を閉じた俺は、明日の清掃に向けた事前の状態確認として、足元の古い床板を1枚剥がした。
ギィッ、と重い軋む音が響く。
その瞬間、足元から這い上がってきた冷気によって、室温が急激に2度下がった。
埃まみれの床下から覗いていたのは、木材でも土でもなかった。どす黒い瘴気を纏い、禍々しい赤黒い光を放つ巨大な魔法陣だ。
「あ、リクト様! それ、魔王城の玉座に直通している古代の転移陣ですよ! どうしてこんなところに!?」
床下を覗き込んだエリナが驚きの声を上げる。
俺はしゃがみ込み、指先で魔力の流動を一瞥した。膨大な魔力量と安定した座標。素人の悪戯ではない。間違いなく魔王城の最奥に繋がっている。
だが、世界を揺るがす大発見だろうと、俺にとっては完璧な大掃除の動線を乱す障害物でしかない。
「……ひどく湿っぽくてカビの原因になる。掃除の邪魔だな」
俺は深々とため息をつき、閉じたばかりの予定表を再び開いて赤ペンを走らせた。
「明日の13時00分から14時00分の1時間で、転移陣の先へ行って魔王本体を処理しておくか。ここの床板を磨くのはその後だ」
「はいっ! 魔王の駆除ですね。予定表にしっかり組み込んでおきます!」
エリナは微塵も疑うことなく、楽しげにメモ帳へ追記する。
俺にとって魔王という存在は、キッチンの床下に湧いたただの害虫と何一つ変わらない。1匹の害虫(魔王)を駆除するための物理的な変数と、必要な致死量(算数)を脳内で素早く弾き出し、明日のタスクへ事務的に追加していく。
「さて、明日の午後は少し忙しくなるな」
俺は足元で禍々しい光を放つ転移陣を完全に無視し、まずは手元の雑巾の在庫確認という、最重要タスクへと戻った。
かくして、世界を恐怖の底に陥れた魔王の命運は、勇者の剣でも聖なる魔法でもなく――『キッチンの大掃除のついで』として決定したのだった。
【第2部・完】
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