第36話:無能の謝罪
「リクト様、ただいま戻りました! 特売の卵、一つも割れていませんよ!」
アジトの扉を開けたエリナが、満面の笑みで卵のパックを高く掲げた。
純白の装備には、泥跳ねすら見当たらない。つい先刻まで王都を滅ぼしかけた大惨事の中心にいたとは信じられないほど、その表情は晴れやかだった。
「ご苦労。これで予定通りオムレツ作りに移行できる」
リクトは受け取った卵を素早く検品すると、手元の予定表に赤ペンでチェックを入れた。温度変化も殻のヒビ割れも一切ない、完璧な仕事だ。
王都を灰にする極大魔法の処理など、彼らにとっては夕飯前の軽いお使いに過ぎない。平和な日常タスクへと戻ろうとしたその時。
泥を引きずるような重い足音が、アジトの入り口で止まった。
「あ……あぁ……っ」
そこに立っていたのは、エリート魔法騎士団長レオナルドだった。
かつてリクトから指揮権を奪い、血統と魔力がすべてだと威張り散らしていた傲慢な姿は、もうどこにもない。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れ、生まれたての小鹿のように両足がガクガクと震え続けている。
絶対の常識だった究極の魔法が、たかが石ころ一つを用いた物理法則(算数)の前に完全敗北した圧倒的な事実。
リクトの異常な計算能力に対する底知れぬ恐怖と畏怖が、エリートとしてのちっぽけなプライドを根こそぎ叩き折っていた。
「わ、私が無能でしたァァァッ!」
レオナルドはふらふらとリクトの前へ進み出ると、勢いよく床に額を擦りつけた。
力強い泥下座の拍子に跳ねた泥が、アジトの清潔な床に黒い染みを作っていく。
「私が間違っていた! 血統も、魔力も、あなたの計算の前では何の役にも立たなかった! どうか、どうかこの愚か者を、あなたの駒にしてくださいッ!」
必死の命乞いが、アジトの静かな空気に虚しく響き渡る。
かつて最高権力を誇った男は今、床に這いつくばってただの数字(駒)になることだけを懇願していた。
◆ ◆ ◆
「どうか、この無能をあなたの駒に! 命令のままに動く手足としてお使いくださいッ!」
鼻水と泥で顔をぐしゃぐしゃにしたエリート騎士団長が、床に額を擦りつけて泣き叫んでいる。
だが、俺の意識は火にかけたフライパンの表面温度にのみ向けられていた。
鉄板の熱膨張と油の弾ける微かな音から逆算し、現在の温度を正確に160度へと調整する。
極上のオムレツを作るための、最も重要なタスクだ。
「お願いします! 私にはもう、あなたしかいない! どうか、どうか私を――!」
声が大きい。
だが、オムレツ作りには一切関係ない。
俺は卵を1個、手に取った。
コンコン、とボウルの縁で軽く叩く。
殻に細いヒビが入り、中身が落ちる。
「……リクト様?」
レオナルドの声が止まる。
俺は視線を上げず、2個目の卵を割った。
黄身の状態は良好。特売品としては十分な品質だ。
「わ、私は……エリート魔法騎士団の団長です! これまで数多の戦場を――!」
ガチャ。
コンロの火力を微調整する。
レオナルドの声が、俺の中で少しずつ遠ざかっていく。
俺にとって、今重要なのは卵の温度だけだ。
魔王軍幹部も、極大魔法も、土下座するエリート騎士団長も同じ。
予定表に書かれていないものは、すべて俺の時間を奪うだけの『ノイズ』でしかない。
「どうか……ッ! 私を、駒に……!」
俺は3個目の卵を割った。
パキン、と殻が割れ、白身が落ちる。
「……」
俺は手首のスナップだけで卵をかき混ぜると、黄金色の卵液をフライパンへと流し込んだ。
じゅわり、と小気味良い音が立つ。
床に額を擦りつける音と、鼻水を啜る湿った音が、キッチンに響き続けている。
だが、俺の予定表のどこにも、その懇願を処理するための項目は存在しなかった。
「ノイズは不要だ。俺の予定表の邪魔をするな」
フライパンの上で半熟に仕上がった卵を手首のスナップだけで折りたたみながら、俺は冷酷に言い放った。
足元で泣き喚くエリート騎士など、最初から視界にすら入れていない。
「ノ、ノイズ……? 違う! 私は騎士団長だ! あなたの役に立てる! 剣も魔法も、命令さえあれば――!」
「必要ない」
火力、温度、焼き時間。すべて予定通り。
俺はフライパンをゆっくりと傾けながら、ただ事実だけを告げた。
「私を……必要ない……?」
レオナルドの顔から、最後の血の気まで消え失せた。
一切の感情を含まない絶対的な拒絶を浴びて、彼は泥だらけの床に崩れ落ちる。
そのうつろな瞳が、残酷すぎる真実をようやく理解して絶望に染まっていく。
こいつは俺にとって、盤上の駒ですらない。
数字として計算する価値もない。最初から最後まで、敵を引きつけるためだけの『囮』であり、予定表の外側に書き込まれた使い捨てのゴミでしかなかったのだから。
「どうか……見捨てないで、くだ……さい……ッ。私には、もう……」
「エリナ、皿を用意しろ。これ以上は余熱で卵が硬くなる」
「はいっ! 完璧なタイミングでお持ちしました!」
血を吐くような無能の命乞いを、俺は完全に環境音としてシャットアウトした。
差し出された純白の皿の上へ、黄金色に輝くオムレツを静かに滑り込ませる。
表面には傷一つなく、温度変化による縮みもない。
理想的なふんわりとした形状を保った、完璧な仕上がりだ。
「よし。計算通り、タイムロスは0.00秒だ」
俺は完成したオムレツを手に取り、くるりと踵を返した。
「そ、そんな……私は……エリート魔法騎士団の……」
背後で泥水に塗れてすすり泣く敗残兵を完全に無視し、俺は夕食のテーブルへと向かって歩き出す。
俺の視界にあるのは、皿の上で揺れる熱々のオムレツだけだ。
予定表にないものへ、割り当てる時間は存在しないのだ。
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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