第32話:天才の暴走
「燃え尽きろォォォッ!! 忌まわしき算数など届かぬ、絶対的な魔力の前にひれ伏せぇぇぇッ!!」
顔の皮膚を無残に引き裂き、血の涙を流すザッカスが天へ向かって絶叫する。
その瞬間、王都の上空を覆っていた雲が、どす黒く禍々しい炎の色に染まり上がった。
大気が唸りを上げ、王都中の窓ガラスが熱と魔力圧で一斉に砕け散る。
戦場に立ち尽くすザッカスを中心に、目に見えるほどの極大の魔力が陽炎のように渦を巻いた。300年を生きた魔王軍幹部が、己の寿命そのものを薪にして放つ常識外れの広範囲殲滅魔法『焦熱の終末』。
それは生物の本能を直接叩きのめすような、絶望という名で形作られたファンタジーの極致であった。
「ひっ……あ、あぁ……ッ」
泥の中に這いつくばっていたエリート魔法騎士団長レオナルドは、ガチガチと歯の根を鳴らして震え上がった。
彼らが誇っていた血統も高尚な魔力も、今まさに頭上で膨れ上がる地獄の釜の前では、ちっぽけな塵芥に等しい。
「防げない……あんなもの、誰にも防げる道理がないッ!」
魔力至上主義のエリートとして生きてきた彼だからこそ、あの魔法の威力がどれほど桁違いなのかが痛いほど理解できてしまう。
いかなる魔法障壁も陣形も意味をなさない。王都の街並みも、そこに生きるすべての命も、たった一撃で灰へと変えられてしまう。
「終わりだ……王都も、騎士団も、全部終わりだァァァッ!」
騎士としての矜持も、エリートとしての誇りも、もはやどこにも残っていなかった。
レオナルドは剣を取り落とし、両手で頭を抱え込むと、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして慟哭した。
「誰か……助けてくれッ! 死にたくない、死にたくないよぉぉぉぉっ!!」
かつて威風堂々と王都の指揮権を奪い、自分たちを最強だと信じて疑わなかった男は今、泥にまみれながら子供のように情けない声で泣き叫び続けていた。
圧倒的な魔法の暴力を前に、戦場は完全な絶望に呑み込まれようとしていた。
◆ ◆ ◆
『嫌だ、死にたくない……! もう終わりだァァァッ!』
通信具から漏れ聞こえるエリート騎士団長の慟哭を、俺はただの邪魔な環境音としてあっさりと切り捨てた。
「やかましいノイズだ。計算の邪魔になる」
俺は通信具を裏返し、物理的に音量を遮断すると、手元の予定表に赤ペンを走らせた。
空が禍々しく染まり、王都が滅亡の危機に瀕しているらしい。
だが、俺にとってそんなものはただの物理的なデータ(変数)に過ぎない。
熱量による大気の膨張率、発生した強烈な上昇気流の風速。そして、魔法陣を構成する魔力の流動速度。
それらすべての数値を、俺は脳内で一瞬にして事務的に処理していく。
「エリナ、特売の卵の状態はどうなっている?」
『はい、リクト様! 汚れもヒビも一つありません!』
「よし。だが、魔法の熱でこれ以上外気温が上がれば、鮮度が落ちるな」
俺の感情は微塵も動かない。
今この瞬間の俺の最優先タスクは、『特売の卵を痛ませずに冷蔵庫へしまうこと』ただ一つだ。
温度差で殻が割れる確率を完全にゼロにするため、急激な冷気を避けて、緩やかに庫内へ滑り込ませる必要がある。
魔法の爆発よりも、こちらのほうが失敗した場合の損失が大きい。
「敵の魔法陣の展開速度から逆算して、詠唱完了まで残り240秒といったところか」
俺は赤ペンを置き、完成した計算式を一瞥した。
展開される魔力の波長と、敵の足元にある岩盤の傾斜、そして周囲の地形データ。必要な数字はすべて出揃った。
「卵を冷蔵庫の定位置にしまうまでの所要時間は、約18秒。――問題ない。十分間に合うな」
俺は淡々とそう呟き、予定表の余白に新たな行を書き加えた。
『240秒以内:魔法(変数)の停止処理』
王都を焼き払うというその大仰な現象も、俺からすればただの事務処理の対象でしかない。
導き出された数式(解)によれば、足元に転がっている『石ころ一つ』で完全に相殺できる。
「さて。オムレツ作りの前に、サクッと終わらせるか」
俺は通信具を手に取り、すでに片手で冷蔵庫の扉を開けながら歩き出した。
◆ ◆ ◆
「240秒で終わらせるだと!? ふざけるなッ、あんな超火力が算数なんかで止められるわけがないだろうがァァッ!」
泥水の中に転がる通信具から響いた冷淡な宣言に、レオナルドは発狂寸前の悲鳴を上げた。
頭上では王都を焼き尽くす極大魔法の詠唱が続き、肌を焦がすほどの恐ろしい熱波が容赦なく降り注いでいる。
常識で考えれば、どう足掻いても絶対に逃れられない死のカウントダウン。
圧倒的な魔法の暴力を前に、彼が縋ってきたエリートとしての誇りなど、とうの昔に消え失せていた。
「狂っている……! あれは魔界一の天才が寿命を削った一撃だぞ! ただの計算や理屈でどうにかなる次元じゃないんだッ!」
「どうにかなりますよ。だって、リクト様の計算ですから」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして喚くエリート騎士とは対極的に、エリナは無邪気な笑顔を浮かべていた。
迫り来る終末の炎を前にしても、彼女の心には微塵の疑いも恐怖もない。
「リクト様、特売の卵をしまうために早くここをお掃除しちゃいましょう!」
『ああ。エリナ、お前の右手側にある石を確認しろ』
通信具から、感情の完全に抜け落ちた事務的な指示が飛ぶ。
王都を滅ぼす魔法の熱量も、敵の殺意も、彼にとってはただの計算式に組み込む数字でしかない。
『ひびが入っている。大きさは手のひら程度だ。周囲の地面の傾斜も確認しろ』
エリナは素直に足元を見た。
そこには、本当に何の変哲もない石ころが転がっている。
「ありました!」
『それでいい。仰角35度。敵の足元の岩盤へ向けて、その石を全力で蹴り飛ばせ』
「了解です!」
エリナが躊躇いなく石の前に立ち、脚を大きく振りかぶった。
その光景を見て、レオナルドの顔が限界まで引きつる。
「い、石ころ一つだと……!? そんなふざけたもので、極大魔法が止まるわけがないだろうがァァァッ!」
魔法という常識に囚われたエリートが、完全な絶望の中で血を吐くように絶叫する。
しかしエリナは痛ましい悲鳴を完全にノイズとして切り捨てると、微塵の疑いもなく、全力で石ころを蹴り飛ばした。
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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