第31話:算数と絶望の差
血と泥、そして焦げた肉の異臭が立ち込める王都の防衛線。
「ふざけるなァァァァッ!!」
瓦礫の山となった戦場跡に、魔王軍幹部ザッカスの絶叫が響き渡った。
血まみれの拳が、幾度も地面に叩きつけられる。
彼の足元に転がっているのは、つい先刻まで手足のように操っていたはずの魔王軍500体の無残な死骸だ。指一本触れられることなく、ただ地形と風向き、そして重力加速度という連鎖だけで自軍がすり潰された異常な光景。
「古代魔法だ! 超火力の禁術に決まっている! そうでなければ、この私が理解できぬ力で敗れるなど、あってはならんのだッ!」
ザッカスは血走った目で虚空を睨みつけ、唾を撒き散らしながら喚き散らす。
幻惑と伏兵を極め、幾千もの戦場を支配してきた『魔界一の天才軍師』としての誇りは、すでに修復不可能なほどヒビ割れていた。魔法と魔力こそが至高だと信じて疑わない彼にとって、剣も魔法も使わないただの物理法則によって己の知略がねじ伏せられた事実など、天地がひっくり返っても受け入れられるものではない。
遠く離れた地底では、かつて軍師を追放した勇者が「指示をくれ」と泥水に顔を擦りつけて泣き叫んでいる。
圧倒的な格差を前に真実を求めた愚かな勇者と、真実から目を背けて虚構にすがる自称・天才軍師。どちらも同じ男の計算上で転がされ、致命的な絶望へと突き落とされている。
「誰か……! 誰でもいい、答えろッ! あの平民は、いったい何を使ったのだッ!!」
答えを求めて両手を振り回し、血に染まった戦場跡で哀れなピエロが虚しく叫び続ける。
「――ふふっ、そんなに難しいことじゃないんですよ?」
不意に、地獄のような惨状には全く似つかわしくない、鈴を転がすような少女の声が響いた。
ザッカスが弾かれたように振り返った先。
そこには、汚れ一つない純白の装備に身を包み、特売の卵を大事そうに抱えたギルドの受付嬢――エリナが、無邪気な笑みを浮かべて立っていた。
「き、貴様……ッ! あの平民の連れか!」
泥と血に塗れたザッカスは、這いつくばったまま牙を剥いた。
憎悪と混乱が入り混じった顔で、目の前の少女を威嚇するように怒鳴りつける。
「答えろ! あの男は、いったいどれほど強大な魔法を使ったのだ! どんな禁術を用いて、この私の完璧な陣形を崩したッ!」
悲痛なまでの絶叫に対し、エリナは大切そうに卵の袋を抱え直すと、不思議そうに小首を傾げた。
「魔力……ですか? リクト様は、魔法なんて一切使っていませんよ」
「嘘をつくなァ! これほどの軍勢が、超火力もなしに全滅させられるはずがないだろうがッ!」
「本当ですって。リクト様は『風の抵抗と、地面のぬかるみの深さから計算しただけ』って仰ってました」
「……は?」
間抜けな声が、ザッカスの喉から漏れた。
「敵が密集する地点の傾斜を3度と計算して、素人の歩幅のブレを式に組み込む。1体が転べば後ろは避けられないので、あとは重力加速度で勝手に自滅するそうです。だから、そもそも魔力なんて必要ないんですよ」
無邪気な声が、静かに、しかし容赦なく突き刺さる。
高尚な魔力も、奇跡のスキルも介在しない。
ただ風がどれだけ押し、敵がどう足を滑らせるかを数字として算出しただけ。自らを『魔界一の天才軍師』と呼んできた彼の知略のすべてが、魔法でも奇跡でもない、ただの『算数』に潰されたのだ。
「た、ただの……算数、だと……?」
ザッカスの膝が、力なく泥の中へ落ちた。
糸の切れた操り人形のように俯いたまま、うわ言のように繰り返す。
「あ、急がないと。早く帰ってオムレツを作らないと、特売の卵が傷んじゃいますから」
発狂寸前のザッカスをよそに、エリナの意識はすでに日常のタスクへと完全に向いていた。
自分たちの命懸けの侵攻が、買い物の『ついで』の事務処理で掃除されただけという圧倒的な事実。
「私は……魔界一の、天才軍師、だぞ……」
震える声で紡いだ肩書きは、もはや何の重みも持たなかった。
高慢な自尊心がガラガラと音を立てて崩れ去る。圧倒的な屈辱と絶望が、彼の中に残っていた知性をドロドロに溶かしていく。
「あ……あああああああああッ!!」
突如、ザッカスは両手で己の顔面を力任せに掻きむしった。
鋭い爪が皮膚を引き裂き、どす黒い血が頬を伝って泥と混ざり合う。もはやそこに、知略を誇った軍師の面影は微塵も残っていなかった。
「認めぬ……認めぬぞッ! あんな凡夫の数字遊びなど! この完璧な私が、平民の算数ごときに敗れる道理があって堪るかァァァッ!」
完全に知将の仮面を脱ぎ捨てたザッカスの口が、三日月のように醜悪に裂ける。
理解できない現実を暴力で塗り潰すかのように、彼の全身からどす黒く禍々しい魔力が爆発的に吹き上がった。
それは瞬く間に空を覆い隠し、王都全体を絶望の闇で包み込んでいく。
「消し飛べ! あの平民も、この忌まわしい王都も、すべて灰にしてやる……ッ!」
己の寿命そのものを代償とする、最悪の広範囲殲滅魔法『焦熱の終末』への前兆。
理性を完全に失った哀れな道化は、自身の命すらも盤面から投げ捨てるように、天に向かって呪いの詠唱を叫び始めた。
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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