第30話(幕間):予定表なき地獄
「あーっはっはっは! ざまぁみろ、リクト! エリート様に追放されて、お前も今頃はこの泥水と同じくらい惨めなツラをしているんだろうな!」
薄暗く淀んだ地獄の鉱山。
手枷と足枷をつけられた元勇者アレンは、泥だらけの地面に這いつくばりながら狂喜の笑い声を上げていた。
手にした砂利混じりの泥水を、彼は躊躇なく喉に流し込む。
自分を追い落とした憎き軍師が没落したという見当違いの噂にすがりつき、その泥水すら極上の美酒であるかのように、薄汚れた顔で味わっていた。
「エリート騎士団が指揮を執る限り、あいつのちっぽけな算数なんか通用しない! せいぜい後方で絶望して泣き叫ぶがいいさ!」
「そうだそうだ! 俺たちを追い出した天罰だ!」
元仲間たちも同調し、下品な笑い声を上げる。
だが、その見当違いの哄笑は、足元から響いた不気味な重低音によって唐突に遮られた。
ズゴゴゴゴォォォォッ!!
「な、なんだ!?」
「お、おい見ろ! 坑道の奥から……岩壁が崩れてくるぞ!」
土煙とともに分厚い壁が弾け飛び、巨大な影が次々と這い出してきた。
王都へ侵攻する魔王軍の余波で地脈が乱れ、鉱山の奥底から溢れ出してきた全長10メートルを超える凶悪な魔物、地底ワームの群れだ。
「ひぃぃっ! ワームの大群だぁっ!」
「ダメだ、数が多すぎる! 喰われる前に逃げろぉっ!」
武装していたはずの看守たちは顔面を蒼白にし、武器を放り出して我先にと地上への階段を駆け上がっていく。
「お、おい待て! 逃げるな!」
アレンは手枷をガチャガチャと鳴らし、遠ざかる看守たちの背中へ向かって血走った目で手を伸ばした。
「俺たちを置いていくな! 逃げるなら、この枷を外していけぇっ!」
「知るか! 自分で何とかしろ!」
看守の非情な声が、暗い坑道にこだまする。
丸腰のまま最下層に取り残されたアレンたちの絶望の悲鳴は、這い寄るワームの不気味な蠢きと、岩盤を砕く轟音に無残にもかき消されていった。
ズドガァァァァッ!!
「ひぃぃっ! く、来るなっ!」
巨大な地底ワームが、凄まじい速度でアレンたちへと襲いかかる。
鋭い牙が並ぶ凶悪な大口を前に、手枷をつけたかつての勇者は無様に泥水の中を転げ回った。
「右だ! いや、左に逃げろ!」
「どっちだよ!? お前が囮になれっ!」
仲間同士の醜い怒号が、暗い坑道に響き渡る。
かつてSランクだった頃、これより強大な魔物を相手にしても、アレンたちが泥に塗れることなど一度もなかった。
『3歩下がって2秒伏せろ』
背後から飛んでくるその冷徹な指示(算数)に従うだけで、どんな死角からの攻撃も容易く躱せていたのだ。
だが今、その声はどこにもない。
「避けろォォッ!」
アレンが叫んだ瞬間、ワームの巨大な尾が坑道をなぎ払う。
ドガァンッ!
「ぎゃあああっ!」
岩盤ごと弾き飛ばされ、アレンたちはまとめて泥水へ叩きつけられた。
武器がないから逃げられないのではない。どう動けば安全なのか、その『答え』を教えてくれる声がないのだ。
リクトという補助輪を失った彼らは、敵の攻撃をただの一つも自力で回避できない。
自分たちの圧倒的な実力だと思い上がっていたものは、すべてあの平民の軍師が計算した『安全なルート』をなぞっていただけだった。その残酷な事実を、這いつくばって泥水をすする無様な姿が完全に証明していた。
「痛ってぇ……! な、なんで避けられない……っ!」
ワームの突進で砕けた岩の破片が、アレンの肩を激しく打つ。
手枷を引きずりながら必死に足を動かすが、どちらへ逃げればいいのか誰にも分からない。ただパニックに陥り、互いの足を踏みつけ合って転倒を繰り返すだけだ。
「た、助けてくれ……! 誰か……っ!」
衝撃で再び泥水へ吹き飛ばされながら、アレンは死の恐怖に顔を引きつらせる。
誰も答えない地獄の底で、惨めにすがりつく『正解の声』を求めて。かつて自ら追放した男の名前を呼ぶため、彼はついに血走った目で暗い天井を見上げた。
「リクトぉぉぉっ! 指示を出してくれぇぇぇっ!」
暗い坑道に、アレンの喉が裂けんばかりの絶叫が響き渡った。
泥水に這いつくばり、重い手枷を引きずりながら、必死に暗い天井へ向かって手を伸ばす。
だが、当然ながら返事はない。
「3歩下がれ……! そうだ、いつもなら……!」
アレンはガタガタと震える足で後ろへ下がろうとする。しかし、何歩下がれば安全なのかが分からない。
「2歩か!? 3歩か!? 伏せるのか!? 教えてくれ!」
ズドォォンッ!
地底ワームの巨大な尾が、すぐ横の岩壁を粉砕した。
「ひぃぃっ!」
アレンは無様に悲鳴を上げ、泥の中へ倒れ込む。
かつては、リクトの『算数』がすべてを決めていた。
下がる距離。伏せる秒数。それに従うだけで、どんな死角からの危険も容易く素通りしていった。
だが今は違う。
「リクト! 頼む! 助けてくれ!」
涙と鼻水と泥にまみれた顔を泥水へ擦りつけ、かつての勇者は土下座するように泣き叫ぶ。
「俺が悪かった! お前を追い出したのも全部謝る! お前の言う通りに動くから、指示をくれぇぇっ!」
見苦しい命乞い。しかし、それが届くことは永遠にない。
あの日、自らの手で『補助輪』を投げ捨てた時点で、彼らの予定表は完全に白紙となっているのだ。
ズゴゴゴゴッ!
ワームの巨大な影が、無様に這いつくばる元勇者たちを完全に覆い隠す。
正解を知る男はここにはいない。彼らに残されたのは、自ら捨てた『算数』の対価として泥をすすり続ける、計算不能な地獄だけだった。
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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