第3話:1秒のズレもない無双劇
「ひぃぃぃっ! 死にたくない、助けてくれぇっ!」
薄暗い迷宮の入り口から、情けない悲鳴と共に、泥と緑色の酸にまみれた勇者アレンが転がり出てきた。
その背後からは、同じくボロボロになった魔法使いや僧侶たちが半狂乱で逃げ惑っている。
「なんで、たかがスライムなんかに……っ! 俺は勇者だぞ!」
自慢の聖剣すら迷宮の中に放り出したまま、涙と鼻水を垂らして無様に這いつくばるアレン。
つい昨日、リクトに追放を宣告した時の傲慢なプライドなど、すでに微塵も残っていない。
無理もなかった。
今まで自分たちが無傷で戦えていたのは、リクトが敵の行動パターンから天候、地形まで全てを計算し、秒単位で完璧な指示を出していたからだ。
彼の『予定表』という名の補助輪を外した彼らは、最弱の魔物にすら手も足も出ない、ただの素人の烏合の衆でしかなかった。
「ヒール、ヒールをくれ! 顔が、顔が溶けるぅぅっ!」
「だ、ダメです! 魔力配分を間違えて、もう空っぽで……っ!」
泣き喚きながら、四つん這いになって街の方向へ逃げ帰っていく元・最強パーティー。
彼らの心に刻まれたのは、自分たちの無能さに対する絶望的なまでの現実だけだった。
そんな彼らの無様な敗走劇など知る由もなく。
同時刻、北の森――。
◆ ◆ ◆
「14時0分15秒、右へ30センチ回避……!」
エリナが震える声で呟きながら、すっと横に体を滑らせた。
直後、本来ならCランクパーティーがかりで挑むはずの巨大オークが振り下ろした棍棒が、彼女の髪の毛数ミリを掠めて空を切る。
「14時0分16秒、死角から双剣を交差させて突く……っ!」
言葉と同時に、彼女の剣先がオークの首の動脈へと吸い込まれた。
ズシンッ……!!
地響きを立てて、巨大なオークの身体が前のめりに倒れ伏した。
「う、嘘、でしょ……?」
俺が選んだ安物の双剣を握りしめたまま、エリナは信じられないものを見る目で自分の両手を見つめている。
彼女の服には、事前の宣言通り泥一つ跳ねていなかった。
格上の魔物であるオークを相手に、完全な無傷での一撃討伐だ。
「か、神の奇跡……っ。私、本当に予定表通りに一歩動いて、剣を突き出しただけなのに……!」
感動と興奮でガクガクと膝を震わせ、彼女は甲高い声を上げる。
当たり前だ。
俺は懐中時計の秒針を確認しつつ、内心で息を吐いた。
素人の彼女が、巨大なオークの圧を前にして、恐怖で『0.4秒』反応が遅れることなど最初から計算に入っている。
だからこそ今朝、出発前に無意味に思える「重さ5キロの木箱を、斜め45度の角度で荷台へ放り投げる作業」を30回連続でやらせたのだ。
彼女の未熟な筋肉に、オークの急所を正確に抉るための『最適な角度と速度』を強制的に記憶させるためにな。
緊迫感など微塵もない足取りで、俺は木の陰からゆっくりと歩み出る。
「奇跡なんかじゃない。ただの算数だ」
俺は平然と告げ、息絶えたオークの巨体を一瞥した。
「14時0分15秒。予定通りに吹いた北西の風が、オークの嗅覚と視界を塞いだ。そして、お前が今朝繰り返した『木箱を投げる前傾姿勢』は、オークの薙ぎ払いをミリ単位で躱し、恐怖による0.4秒の遅延を相殺して、最速で刃を届かせる完璧な初動だ」
「えっ……!? あ、あのただの木箱の積み込みって、このための……!?」
「風圧、筋肉の収縮率、そしてお前の『恐怖心』。全てを計算すれば、誰にでも導き出せる当たり前の結果にすぎない」
(恐怖による硬直も、素人ゆえの歩幅のブレも、すべて俺の計算式の中にある。駒の弱さすら利用してこその完璧な予定表だ)
俺にとっては、息をするのと同じくらい基礎的な理論だ。
しかし、エリナは雷に打たれたような顔で俺を見上げている。
「ただの算数で、オークが瞬殺……!? あ、ありえない……っ!」
「だが、事実勝っただろう。さあ、さっさとそのオークの討伐部位を切り取れ。ギルドで換金して、次のスケジュールに進むぞ」
呆然と立ち尽くす彼女に、俺は淡々と次の指示を出した。
◆ ◆ ◆
「……これは、誰が書いた?」
超弱小ギルド『落ち葉の剣』の受付カウンター。
ギルドマスターの老人は、声と手先を震わせていた。
俺は机の上に置かれた羊皮紙を指差す。
「俺だ」
ギルドマスターは答えなかった。
何度も紙を読み返し、次にオークの討伐記録とエリナの姿を交互に見る。
「北西からの風……地面の傾き……オークの歩幅……」
ぶつぶつと呟きながら、顔からどんどん血の気が引いていく。
「ただの紙切れじゃない……魔力の流れまで計算式に組み込まれている……! これ、全部……事前に計算していたのか?」
「当然だ」
「オークが右足を出す位置まで?」
「そうなるように誘導した」
俺が淡々と答えると、老人の手がピタリと止まった。
「……誘導?」
「エリナが立つ位置を決めれば、オークの動きはかなり絞れる。あとは攻撃が届かない場所を順番に消していけばいい」
「…………」
ギルドマスターは黙ったまま、羊皮紙を握りしめる。
やがて、その顔が引きつった。
「まさか……この紙切れ一枚で、万年Eランクの少女を無傷でオーク討伐まで……?」
「一枚じゃない。昨日から100項目以上書いてある」
「100……」
老人の膝が、がくりと落ちた。
「お、おい?」
次の瞬間。
ドンッ!
床板が割れんばかりの勢いで、ギルドマスターが床に額を叩きつけた。
完全な土下座だった。
「頼む! 君、うちの専属になってくれぇぇぇっ!!」
「……は?」
床に額を擦りつけたまま、彼はなりふり構わず叫ぶ。
「報酬はギルドの全財産を出す! 部屋も用意する! 必要な道具も全部そろえる! だから、どうかこのギルドを救ってくれ!」
「落ち着け」
「落ち着いていられるか!」
顔を上げたギルドマスターの目は、血走るほどに本気だった。
「こんな異常な予定表を書ける人間を、俺は見たことがない! いや、見たことがないどころか……こんなもの、人間の業じゃない!」
俺は呆れて首を傾げる。
「ただの計算だぞ」
「それを普通はできないんだよ!」
老人がまた床に額を擦りつける。
「一生のお願いだっ! 頼む、リクト君! うちの専属に……!」
俺は腕を組み、目の前で這いつくばる男を見下ろした。
専属、か。
(無能な勇者たちの尻拭いをするよりは、よほど有意義な時間の使い方ができそうだ)
俺は静かに口角を上げる。
「……いいだろう。まずは条件を聞こうか」
かくして、最底辺の弱小ギルドと、追放された最強の軍師の契約は結ばれた。
この日を境に『落ち葉の剣』が世界を席巻していくことを、今はまだ誰も知らない。
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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