第18話:計算通りの絶望
グォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!
天地を揺るがす咆哮が、王都の空気を物理的に震わせた。
分厚い雲を突き破り、空を覆い尽くすほどの巨大な漆黒の翼が羽ばたく。
山のような黒い巨体。見下ろすだけで生物をすくみ上がらせる凶悪な黄金の瞳。
災害級ドラゴンは、まるで足元の虫けらを観察するようにゆっくりと首を持ち上げた。
「う、嘘だろ……」
最前線で陣形を維持していたSランク冒険者の一人が、カランッと剣を取り落とす。
歴戦の猛者ですら、その存在を前にして顔面を真っ青にしていた。
ドラゴンが大きく息を吸い込む。
周囲の大気が渦を巻き、巨大な顎の奥に灼熱の光が膨れ上がっていく。
「ブレスが来るぞッ!! 防壁魔法、最大出力ぅっ!! 結界を何十層にも重ねろォォォッ!」
王都最高峰の才能を誇るSランクギルド『天上の剣』の魔法使いたちが、血を吐くような悲鳴を上げて多重結界を展開する。
王都の命運を懸けた、最高位の防御魔法陣が夜空に輝いた。
だが――。
ゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!
天を焦がす極大の熱線が、王都前の平野を一直線に薙ぎ払った。
「あ、ああぁ……っ」
Sランクの精鋭たちが編み上げた魔法障壁は、ブレスの余波に触れただけで飴細工のようにあっけなく蒸発した。
大地が抉れ、岩がマグマへと変わり、逃げ遅れた数百体の魔物が悲鳴を上げる間もなく光の中に消滅していく。
「だめだ……勝てるわけがない……!」
Sランクギルドのリーダーが、震える両手で顔を覆い、泥の上にへたり込んだ。
「俺たちのレベルやステータス(数字)がいくら高くても、あんな『歩く天災』の前では何の意味もない……!」
その言葉が、戦場全体の総意だった。
防衛陣形を守っていた衛兵たちの膝が震え、次々とその場に崩れ落ちていく。司令室の使者たちも、もはや逃げることすら忘れて空を見上げていた。
それは、剣や魔法で戦う『敵』ではない。
国家を丸ごと滅ぼす、逃避不可能な絶対の『死』だった。
遥か後方。安全地帯の泥水の中に投げ捨てられていた勇者アレンも、その光景を呆然と見上げていた。
顔から血の気が消え失せている。
エリナに粗大ゴミとして投げ捨てられた屈辱も、粉砕されたプライドも、もはやどうでもよかった。
人間同士の優劣や名誉争いなど、あの圧倒的な存在の前ではチリほどの価値もない。極限の恐怖を前にして、かつての勇者の虚栄心は文字通り完全に消滅していた。
絶望が、伝染していく。
もはや誰も剣を握らない。誰も魔法の詠唱を行わない。
熱風が吹き荒れ、焦げた匂いが戦場を包み込む。
何万という人間が絶望のどん底に突き落とされ、王都の最前線は、ただ死の訪れを待つだけの『完全な沈黙』に支配された。
――ただ一つの、小さな時計の音を除いて。
◆ ◆ ◆
カチリ。
俺は手元の懐中時計を閉じた。
「15時00分12秒。ドラゴンの出現座標、ブレスの放射角、熱拡散半径800メートル……すべて事前の計算通りだ」
俺は戦術盤に新しい駒を置き、淡々と告げた。
「人的被害ゼロ。誤差なし」
その言葉に、へたり込んでいた使者たちが、信じられないものを見るような顔で一斉に振り返る。
「ご、誤差なし……!? り、リクト殿! 今の極大ブレスをご覧になりましたか!? Sランクの最高位防御魔法が、一瞬で……!」
「見ていたが、だからなんだ。あんな分厚いだけの魔力障壁など、ブレスの熱量と衝突すれば蒸発するに決まっている。――そもそも、防ぐ必要がない」
「は……?」
使者が呆けた声を漏らす。
「前衛のSランクどもの配置は、ブレスの熱拡散半径から緻密に『3メートル』外側へズラしてある。初めから直撃などしない」
司令室の空気が凍りついた。
窓の外でへたり込んでいるSランク冒険者たちは『運良く生き残った』と思っているのだろう。だが違う。彼らが生きているのは、俺の数式が『生かした』からだ。
「窓の外の巨大トカゲより、俺にとっては重大な問題がある」
俺は手帳を開き、次のタスクへ視線を移した。
『大根の特売開始まで、残り五分四十秒』
これ以上のタイムロスは、完璧なスケジュールを組む軍師としての名折れだ。
「通信を開け」
俺は震える使者を無視し、通信魔導具へ向かって告げた。
「エリナ、聞こえるか」
『はいっ、リクト様! いつでも参ります!』
通信魔導具越しに、微塵も恐怖を感じていないエリナの嬉々とした声が返ってくる。
誰もが死を覚悟した絶望の戦場において、俺たちの会話だけが完全に日常の『事務連絡』だった。
「現在のタスク進行度、予定とのズレは0.00秒だ。あの巨大トカゲはこれより三分後、計算通りの座標へ確実に頭を下ろす」
『素晴らしいです! さすがはリクト様の予定表!』
俺は懐中時計を指で弾き、冷徹に告げた。
「これより、タスクをフェーズ2へ移行する。指示した座標へ向かえ」
『了解いたしました!』
「急げよ。特売開始まで……あと五分少々だ」
◆ ◆ ◆
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ! に、逃げろォォォッ!」
泥水の中に放り出されていたアレンが、泡を吹きながら無様に後方へと這いずり始めた。
国中から称賛を浴びた聖剣は泥の中に放置され、かつての勇者はただ死の恐怖から逃れるためだけに手足をバタつかせている。
周囲の衛兵やSランク冒険者たちも、みっともなく命乞いのような泣き言を喚きながら逃げ惑うかつての英雄の姿を見て、完全に心が折れていた。
誰もが死を受け入れた、極限の戦場。
だがその時、絶望に沈む静寂の中に、場違いなほど軽やかな足音と明るい笑い声が響いた。
「ふふっ、聞きましたか? 誤差0.00秒。さすがはリクト様の完璧な予定表ですね!」
「あはは、ほんと凄いや! リクトさんの計算通り、熱風が私たちのぴったり3メートル手前で止まったもんね!」
「でもエリナちゃん、急がないと特売の大根がなくなっちゃうよ?」
「ええ。あと三分であの巨大トカゲが指定座標に首を下ろしますから、そこでサクッと落として市場へ向かいますよ」
アレンは息を呑み、信じられないものを見るような目で振り返った。
弱小ギルド『落ち葉の剣』の面々だけが、まるでピクニックにでも向かうかのような足取りで、災害級ドラゴンの真正面へと歩を進めているのだ。
「お、お前ら……狂ってる……っ! あんな天災に、向かっていくなんて……!」
ガチガチと歯の根を鳴らしながら、アレンが震える声を絞り出す。
だが、巨大な双剣を抜いたエリナは、這いずる勇者を視界の端にすら入れなかった。
先ほど『粗大ゴミ』として処理した障害物など、今の彼女にとっては道端の石ころと同義である。
エリナの瞳に映っているのは、国家を滅ぼす生きた天災などではない。
その先にある『スーパーのタイムセール』という、リクトが設定した絶対の期限だけだ。
「さあ、急ぎますよ皆さん。大根と白菜が私たちを待っています」
「うんっ! 予定表通りに片付けちゃおー!」
天を焦がすドラゴンの咆哮が轟く中。
少女たちは無邪気な笑い声を響かせながら、絶望の象徴たる巨大な黒竜へと真っ直ぐに駆けていった。
絶対の死をもたらす天災と、常識を嘲笑う最狂の軍師。
一切の魔法を必要としない『究極の算数』による討伐劇が、今、幕を開ける――。
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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