第12話:算数と絶望の差
「右へ半歩。0.3秒後にしゃがめ」
俺が懐中時計の秒針を見つめたまま指示を出すと、エリナたちは涼しい顔で一斉に右へ半歩ずれ、そのまま姿勢を落とした。
直後。黒曜竜グラディウスの巨大な爪が空気を裂き、彼女たちの頭の数ミリ上を通過していく。
ドガァァンッ!
背後の強固な岩壁が粉々に砕け散り、鼓膜を破るほどの風圧が吹き荒れた。
だが、誰一人として傷一つ負っていない。
「完璧ですっ!」
しゃがみ込んだ姿勢のまま、エリナが頬を紅潮させて恍惚とした声を上げる。
恐怖の色は欠片もない。彼女の熱を帯びた視線は、背後の災厄級ボスではなく、俺の手元にある予定表へ向いていた。
「前方15度から漆黒のブレス。全員、左へ45センチ移動しろ」
グラディウスが大きく息を吸い込み、黒い魔力が喉へ集まる。
かつて勇者パーティーを全滅寸前まで追い込んだ、回避不能の範囲攻撃。
だが、全員が迷いなく動いた直後。
ゴォォォォォッ!!
空間を焼き払う致死の黒炎が放たれるが、その進路上に俺たちはいない。
凄まじい熱波が頬を撫でるが、誰も瞬きすらしない。わずか45センチ。それだけで致命の攻撃は完全に空を切った。
「す、すごいです……!」
「予定表との誤差、0.00秒!」
ギルド員たちの声が弾む。
もはやこれは戦闘ではない。定められた工程を消化するだけの、工場のベルトコンベア作業だ。
事前の観察から導き出した『個体差(首の筋肉量)による0.2秒のズレ』も、俺が歩幅を3ミリ広げて歩くことで完全に相殺されている。竜の筋肉の動き、呼吸の深さ、重心のブレ。そのすべてが、0.1秒先の未来を予測するための単純な変数でしかなかった。
「グルガアァァァッ!!」
度重なる必殺の攻撃を、すべて『ただ立っている位置をズラされただけ』で無効化されたグラディウスが、苛立ちに任せて大咆哮を上げた。
「ちょっと! うるさいですっ!」
エリナが不満げに竜を睨みつける。
竜の威圧感に怒っているのではない。
「グラディウスの声のせいで、リクト様の尊い秒数指定が聞き取りにくいじゃないですか!」
もはや彼女たちにとって、災厄級ボスすら『タスク進行を妨げる耳障りなノイズ』でしかなかった。
激昂した竜が、天井の影へ向かって大きく跳躍する。
死角からの奇襲。上空から全質量を乗せた押し潰し攻撃を狙っている。
俺は盤面を見上げることなく、淡々とページをめくった。
9時17分45秒。
「――討伐完了(9時18分00秒)まで、残り15秒。予定通り、詰めに入る」
懐中時計の秒針が進む。
「無駄なノイズだ。落下軌道と重力加速度は予測済み。3秒後、指定された空間へ全員で剣を突き出せ」
「「「承知いたしましたっ!!」」」
俺の冷徹な指示に対し、エリナたちは悦びに打ち震えながら、何もない虚空へと一斉に武器を突き出した。
「いいか。こちらからは振るな。ただ、そこに『置いておけ』」
俺は時計の蓋に指をかけ、その時が来るのを静かに待った。
「3、2、1――0」
俺が静かにカウントを終えた、その瞬間。
ドゴォォォォンッ!!
天井の闇を突き破り、黒曜竜グラディウスの巨体が落下してくる。
だが、そこは偶然でも奇跡でもない。俺の計算によって導き出された『急所が寸分の狂いもなく通過する座標』だ。
「ギャガァァァァァァッ!?」
凄まじい地響き。
グラディウスは自らの巨大な質量と重力加速度を乗せたまま、エリナたちが空中に『置いた』だけの剣の切っ先へと、自ら深々とその身を突き刺した。
放たれた運動エネルギーによって脳天から心臓までを貫かれ、災厄級のボスはまともな断末魔を上げる暇すらなく絶命する。
俺は静かに秒針を見つめた。
カチリ。秒針が、予定通りの目盛りへ到達する。
9時18分00秒。
「討伐完了。誤差、0.00秒だ」
俺が懐中時計の蓋を閉じた、その直後だった。
「「「うおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
「や、やったぁぁぁぁぁっ!!」
ギルド員たちが一斉に雄叫びを上げ、狂喜乱舞の絶叫を響かせた。
だが、彼らの視線は、王都を震え上がらせた巨大な竜の死骸など一切見ていない。
全員の瞳が、俺の時計と予定表だけに釘付けになっていた。
「9時18分00秒!」
「予定表との誤差、0.00秒ですっ!」
「完璧です! 完璧ですリクト様ぁぁぁっ!」
エリナは用済みとなった血濡れの剣を無造作に投げ捨て、感極まったように自らに配られた予定表を胸へ強く抱き締めた。その瞳からは大粒の涙すら溢れている。
「リクト様……! 0.01秒の遅れもなく、タスクが完了しました……!」
「今日という日を、俺は一生忘れません……!」
ギルド員の一人が、感動のあまり地面に膝をついて天を仰ぐ。
かつて勇者を絶望させた災厄級ボスを無傷で討伐した偉業など、彼らにとってはもはやどうでもいいのだ。
ただ『スケジュールが完璧に守られ、タスクを誤差ゼロで消化したこと』だけが、彼らの快感を限界まで引き出している。
もはや狂信を通り越し、完全な変態の域に達していた。
「騒ぐな。感傷に浸る時間は予定表に組み込まれていない」
俺は欠伸を一つ落とし、冷徹に言い放った。
「次の工程へ移る。素材の解体と回収、割り当てられた時間は2分だ。動け」
「「「はいっ、喜んで!!」」」
死骸を前にして、エリナたちは恍惚とした笑みを浮かべたまま、弾かれたように次の作業へと取り掛かった。
◆ ◆ ◆
「あり得ん……ッ! ば、馬鹿な……!」
重厚なマホガニーの机が、ギシリと悲鳴を上げた。
王都でも最大級の規模を誇るSランクギルド『天上の剣』本部。その最上階の執務室で、ギルドマスターのガイウスは巨大な水晶玉を凝視したまま、滝のような脂汗を流していた。
水晶玉に映し出されているのは、Aランクダンジョン『黒曜の迷宮』の最深部。
そこには、かつて数多の熟練冒険者を屠ってきた災厄級のボス魔物、黒曜竜グラディウスの巨大な死骸が転がっていた。
「グラディウスだぞ……! Sランクパーティーの我々ですら、討伐に半日はかかる化け物だ……!」
ガイウスの血走った目が、限界まで見開かれる。
「それを、たかが数人の弱小ギルドが……たった3分で、しかも無傷だと……!?」
水晶玉の映像では、竜を倒した冒険者たちが狂喜乱舞していた。
だが、その様子が圧倒的に異常だった。
誰も竜の死体を見ていない。戦利品にも関心がない。
彼らは血濡れの剣を放り出し、ただ『懐中時計』と『紙切れ』を見て涙を流して喜んでいるのだ。
「気味が悪い……」
側近の一人が、恐怖に顔を引きつらせて呟いた。
「魔法も、剣技も使っていない。竜が勝手に自らの巨体を剣に突き刺したように見えました。……まるで戦闘じゃない。工場かなにかの『作業』です」
その言葉に、部屋の誰も反論できなかった。
「あ、あれを見ろ……!」
幹部の一人が、水晶玉の隅を指差して震える声を上げた。
「あの女剣士が、魔物の血に塗れた愛剣をあっさりと投げ捨てて、大事そうに一枚の紙片を抱きしめているぞ……!」
「なっ……間違いない! あれこそが戦局を操る『神話級のアーティファクト』か、さもなくば『失われた古代の戦術書』に違いない!」
ガイウスは、その信じられない光景にさらなる冷や汗を流した。
彼らにとって、それがただの『予定表(しかも買い出しリストの裏)』であることなど、想像の及ぶはずもない。
異常な狂信ぶりを見せるギルド員たちの中、ただ一人。
懐中時計を手にした黒髪の青年だけが、竜の死骸を前に退屈そうに欠伸をしている。
あの青年が『右へ動け』『しゃがめ』と指示を出しただけで、災厄級のボスのすべての攻撃が空を切り、死地が安全な散歩道へと変わっていた。
個人の戦闘力ではない。盤面そのものを完全に支配する、神がかった絶対的な演算能力。
「……あの軍師だ」
ガイウスは掠れた声で呟き、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「あの男がすべての核だ! 剣でも魔法でもない……あの男の『頭脳(計算)』一つで、災厄級のボスが赤子のように解体されたんだぞ!」
部屋の空気が凍りつく。幹部たちの背筋に、底知れぬ悪寒が走った。
「いいか、よく聞け……! もしあの軍師が他のギルドに渡ってみろ。我々『天上の剣』のSランクという地位すら、奴の盤面の上で瞬きする間に消し去られるぞ……!」
「マ、マスター……!?」
「今すぐ動け! 王都中のギルドが奴の異常性に気づく前に、あの黒髪の軍師――リクトを必ず連れて来い!」
ガイウスは部下たちに向かって、悲鳴に近い怒声を張り上げた。
「ギルドの財産をすべて注ぎ込んでもいい! 破格の報酬でも、地位でも、屋敷でも、女でも、なんでもいい! 使える手はすべて使って、何としてもあの男を我がギルドに引き抜くんだッ!」
「「「は、はっ!!」」」
幹部たちが血相を変えて執務室から飛び出していく。
静まり返った部屋の中、ガイウスはなおも水晶玉から目を離せずにいた。
その視線の先では、リクトが冷徹な表情のまま、次なる予定表のページを静かにめくっていた。
そこに書かれているのは、『9時25分:ダンジョンコアの解体』『10時00分:街で大根を安く買う』という、災厄級ボス討伐と同列に並べられた日常のタスクであることなど、Sランクギルドマスターは知る由もなかった。
◆ ◆ ◆ あとがき ◆ ◆ ◆
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